雑感~ノーベル賞から

先日、お店に来たご家族の中のお姉さんが、
「そういや、ノーベル文学賞、今日発表だった!村上春樹はどうかな。何時に発表かな」と。
「お、村上春樹、好きなんだ?」
「いや、東野圭吾が好き。ほとんど読んだ」
早とちりでした。

関東にいるときは、片道2時間の電車通勤の時期もあったし、手持無沙汰の中で本を読むことが多かった。読み始めて面白ければ、次へ読み進めたくなるのは当然で、生活の中に読書の時間が自然と設けられるように…。自分自身がこんな流れだったから、「基本が車通勤の沖縄では本を読む人が少ないよ」と聞いていたのがちょっと記憶に残ってしまっていて、さっきの会話で「やっぱりそんなことないよな」と思い返せるきっかけになって良かったと思っていたり。

村上春樹さんのノーベル賞はなりませんでしたね。
まぁ、彼のエルサレム賞でのスピーチ(http://anond.hatelabo.jp/20090218005155)を聴けば、この結果はいろんな意味で納得。
それにしても、今年こそ受賞なるかというニュースが年中行事になるのかと思うと、ちょっとげんなり。きっと本人も。多分。

今年のノーベル賞で話題になったことの一つが、17歳のマララさんが平和賞を受賞したこと。彼女のスピーチ(http://www.yomiuri.co.jp/world/20141012-OYT1T50145.html)もいろいろなところで紹介されているので、読んだ方もたくさんいるのでは。
※上記リンクの“子ども”の表記が何とも残念なのですが、問題提起の意味も込めて貼ります。それにしても、このスピーチ内容を考えると何ともいやはさ…。

ただ、あちこちでニュースになっているのを見ていて、非常に違和感を覚えてくるのは、「大変な国もあったもんだ」から始まり、イスラム過激派批判に終着するコメントが多いから。

うーん。。。彼女が訴えていることは、そこなのか??

そんな風に思いながら、振り返ること。
フリースクールに通っていても、時折学校から“呼び出される”子は多くて。「明日学校何だぁ」という子には、行きたくないなら行かなくていいとは言っていたのだけど、なんだかんだと言われるように学校に行く子は多かった。

学校から帰ってきて、「行って良かった!」ということはほとんどなく、
「どうだった?」
「んー、別に…」
「お、そうか」と、年頃の親子のような会話になるのが定番。

だけど、本当に何かあった時には様子でわかるもので、話を聴いていくと「学校に来い」ということをあの手この手で言ってくるということがよくあった。この“あの手この手”の中で多いのが、「義務教育なんだから、登校しなさい」パターン。あとは、「高校進学するなら、登校しておかないと不利」パターンかな。(ちなみに高校進学を希望していて、進学できなかった子はいなかったと思う)
中学生くらいの年齢の子が、面談室と言われる密室の中で、圧倒的年長者である校長達からこんな風に言われてトボトボ帰ってきたという場面を想像し、その子がションボリしている姿を目の当たりにしていると、全身の毛穴が開くような感覚に襲われ、それが治まると何ともやるせない気持ちになり、
「もう行かなくていいよ。何かあったら(文句があるなら、の意)、こっちに電話してもらおうね(用事があるならそっちが来い、の意)」と。ぼくも若かったな。。。

フリースクールを運営している人にとっては、こういう出来事なんてしょっちゅうだろうし、こういう出来事が起こっているからこそ、スペースを運営している使命感を持つことも多いのでは。ひどい学校…というにしては、予測可能なパターンになっているし、もう「学校がひどくなっている」と言ってもいいところがあるかな。
(こういう話をすると、「中には一生懸命やっている先生もいますよ」と言われることも多いけど、その先生はこの様な学校の醜い部分を取り繕うために一生懸命な訳ではない。むしろ一緒にしてもらいたくないと思っている、と感じたことの方が多い)

こういう出来事に多くの教え子が直面するからこそ、“義務教育”という言葉を取り上げて授業も行ってきた。やっぱり子どもの多くは先述のようなこと言われていることが多いらしく、教育(というより、登校)は子どもに課せられた義務、と思っていることがほとんど。そこに、“権利”という言葉を織り交ぜながら授業を進め、
「おれは、みんなは教育を受ける権利を持っているという立場。義務は大人が負っているものだね」
「なんだ!先生が言っていたことは、嘘なの?!」
「嘘をついてるつもりじゃなくて、多分本当にそういう考えなんだよ」
「なんだよー、それー。勉強しろよー」なんて。
不登校の子にとって、テーマとしては重いものだとは思うのだけど、明るく進むことが多かったな。最初の“気づき”の種になって、その芽がいつか育てばいいな、くらい“導入の導入”の授業だったけど、楽しかった。まぁ、本来明るく楽しく過ごすことが大前提の年齢への権利なのだから、これでいいのだ。

(日本でも注目されたフィンランドでは、教育を受けることは子どもの“仕事”のようなものであり、ある意味“義務”だということを研究所の方から伺って、目が点になったことがある。“学力をあげた”メソッドだけが注目され、日本でも採用した方が良いという声もよく聞いたけど、どういう思想背景があって、日本に馴染むのかどうかを吟味することは必須だと思う)

さて。

マララさんが訴えていたことは、子どもの人権、権利という普遍的なこと。これらを保証する社会を築いておくべき存在は大人であって、子ども自身が“勝ち取る”ようなことではないはず。子どもが教育を受けられる環境(学校に限らず)を作ることは、大人の方の義務なのだから。もしこれらが保障されていたのならば、もっと彼女が持っていたであろう興味を広げる年齢だったろうな、と思ったりもして、「受賞、すごーい」という単純な報道を見るたびに何とも複雑な気持ちに。
そして、自分自身のフリースクールでの経験を振り返ると、子どもの人権、権利ということにおいて、他の国のことを言っている場合なのか?と思い返し、「日本には学校が整備されていますから恵まれていますね」みたいな発言を見るたびに、教え子がションボリしている姿と、あのやるせない気持ちを生々しく思い出してしまうのです。

また、学校ではなくても。例えば。
ぼくは電車が好きだったけど、電車のない沖縄に来てよかったと思うことの一つが中吊り広告を見なくて済むこと。このご時世、小学生でも電車通学をしていることがあるのに、差別的なこと、性的なこと、批判していい人物が見つかれば粘着質なリンチとしか思えない見出しなどが並ぶ中吊り広告を野放しにしている状況は、子どもを暴力に曝しているに等しく、こういう人権意識、文化とはかけ離れたものを常日頃身近にして育ち、さらにはそれが身体化されてしまう可能性を大いに含んでいるということは、大きな不幸と思わざるを得ないのです。
中吊り広告は一例であって、同じ様なことは、テレビやインターネットを筆頭に、ここかしこで身受けられること。子どもを思うなら手を入れなければならないことに、今この国は塗れていると。

今回のノーベル平和賞、学校の先生達をはじめ大人はこぞって取り上げるニュースだとは思うけど、どのように取り上げるかがこの国の子どもへの思いそのものだと思っています。自分も含めて、今一度、彼女の訴えていることを身近に考える意識を。これは自分達の足元の問題でもあると捉えることが、まずは出発点だと。