テストも終わったところで

定期テストも終わり。とりあえず数学、英語と自分でも納得の点数が取れたようで良かった。返ってきた答案を一緒に見ながら、間違えたところの確認。

「この調子なら次は満点取れそうだね」
「満点はいいよ。このくらいで」
と、まぁ控え目です。

テストの確認も終わったので、新学年の内容を少しずつ始めています。

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不思議なもので思春期の年頃の物事に対するスタンスというのは、大人になってもズルズルと引きずることが多い印象がある。なぜかというと、私はバカだからとか不器用だからとか、肝心なところで自己否定が入る人の話を聞いていると、その根源がどうしても思春期の頃の記憶にあるのかなと思ってしまうから。実際はそんな否定は必要ないことがほとんどだけど、決して謙遜ではなく本人はその様に思っているようだし、そもそもバカとか不器用とか関係のない物事に対しても同じ様な気持ちの入り方をしていくので、横で見ていて何とも胸がチクチクしてくる。

人それぞれの生き方だし、それが性格というものと言ってしまえばそうなのだけど、自分の一生を変えるような物事に出会ったときに、向き合う姿勢の段階でアプローチできないということはないように準備をしていけたらなと、自分の教え子に対しては思っています。

単純に言ってしまうと、アントニオ猪木が「出る前に負けること考えるバカいるかよ」と言ったようなことなんだけど、最初から「ぼくには無理だよ…」と諦めから入るのではなくて例えばテストだったら「まずは100点を目指す!(やればできると思うから)」という風に具体的な形で伝えられる時には積極的に言葉にするようにしています。

その上で、結果は結果で、出た時に振り返って考えればいいんじゃないかな、と。(はっぱをかけているようで実は楽観主義)

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ぼくはフリースクールで教科単元にとらわれない授業を軸に活動しながらも、一日の数時間は教科学習に時間を割いてきた。

フリースクールなどの関係者には、自分は“自由教育”を行っているという意識を持っている人が多く、この人たちの中には“自由教育”というのは“学校教育”の対極にあると捉えている人も多い。テストに関しても公教育の象徴の一つとして考えて否定的な人も珍しくない。中には、「中学校で習う内容は実生活には全く関係ないから、必要ない」なんて言い切ってしまう人までいて(しかもこういう本人は所謂有名大学を出ていたりする)、学校アレルギーもここまでくるとただの暴論だなぁとしか思わないけど、いろんな苦い思いをさせられてきて学校教育に合点がいかない人には、耳障りが良い言葉として残ってしまうこともあるようだ。

もちろん、“自由教育”と“学校教育”は背反するものではなくて、全く別の話のもの。“学校教育”の中に“自由教育”を取り入れることもできるし、その逆にフリースクールと称しているけれど中身は“学校教育”とさほど変わらないということも珍しくない。こういうことに理解を促さず、“学校=強制”というイメージから、学校の対義語を“自由”と置き換えて単純化してしまうことで、ミスリードの連鎖を生んでしまう危うさは正直感じてしまう。

改めて言うと、フリースクールなどの民間教育の場は、福祉ではなくあくまで教育の場として、オリジナルな具体的教育理念・手法を持ち、それを実現するために公教育以外の場を設けたもの(この教育理念に“自由教育”という語句を掲げるところが多いので、上記のようなミスリードを生む原因になっている)。つまり、フリースクールなどの民間教育の場は、学校の対極ではなくて、それぞれに独立したポリシーを持つ教育機関として考える。なので、フリースクールなどが何かにつけて学校否定の場となったり、その割に具体的な教育風景が見えないとなると、設立意思は何だったんだろうと違和感を感じてしまうというのがぼくの本心です。

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高校の時は“おじいちゃん”の年齢の先生がたくさんいたのだけど、テスト前とかにヒィヒィいってる僕たちを見て、

「いっぱい勉強せい。本当の勉強は大人になってからだからな。そのために勉強せい」

とよく言っていた。テストに追われていた当時は苦痛でしかなかったけれど、今になってみるとよくわかる。実際に勉強していた内容を今そのまま思い出せるかというと、そうではないものの方が多いけれど、大学を卒業してから自分で勉強してきたことには、直接的ではないけれどやっぱり不可欠だったと感じる。

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教科の学習を、長い学問の歴史のエッセンスに向き合える時間として考えるのであれば、それは文明の中で生きていく大きな柱の一つだと思う。そして、学問に触れるということは、何もその習得だけに意味があるのではなくて、誰かの人生において大きな何かになる可能性があるというだけで価値があるのだと思う。

しかし、経済最優先の今のこの国では、教育の目標も学問そのものではなくて最終的には就職に集約されることが多い(例えば「あなたの夢は?」という質問が、自然と職業で答えることを想定しているように)。経済最優先の土壌では効率的な道筋を求められるのも当然で、そうなると学歴だったり就職先だったりは効率的な通行証に見えるし、その目標達成のための学習もさらに効率的なものが望まれていく。こういうことは、上述のような学業の本筋ではないと思ってきたけれど、国としての教育の目的が「仕事に役立つかどうか」にシフトしつつあるので、どうやら教育や学問の持つ意味が大きく変わってきているようだ。

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学業を行う教育の場で子どもの人生の一期間を共にしているという身において、教え子が将来「あっ面白そう」という学問などに出会った時、自分で自然と身体が動くようにしておく(これこそを自立と呼んでもいい)準備を一緒に行うことを、大きな目的として持つべきだと思っている。また、それこそが教育現場で働いている自分の存在意義だと思っている。教え子が大人になって自分で歩み寄った学問は、長い人生を豊かにしてくれることは確かなので。

だから、役に立つか立たないかというのが学業を行う理由になってしまうなんて、なんて寂しいんだろうとぼくは思ってしまうのです。