最近のこと

少し時間が出来たので、何か映画でもと思って家にあったDVDを適当に選んで観たのだけど、それが年老いたスタローンとデ・ニーロがボクシングをしているという話で、何だか「う~ん…」という感じに。。。

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そんなで、レンタルに行って『タクシードライバー』を借りてきた。見直すのは約15年ぶり。初めて観た当時、“ちょっとおかしい人”を扱った映画は、新しい作品が出る度にどんどんエスカレートしている(よりワケわからなく、より暴力的に…)印象もあったので、映画としてそこまで衝撃的ではなかったのだけど。

それよりも、デ・ニーロとジョディ・フォスターの若さと、映像のインパクトだけが残っていて。そして、確かに今回見直しても次々に画面の記憶が出てきて、その鮮明さにちょっとビックリした。

今回、「そうだったんだ…」というのは、デ・ニーロ演じるトラヴィスがベトナム帰りの元海兵隊ということ。

他にももろもろ。ずっしり重い。

今回観る前からちょっと気付いていたけれど、この前の相模原の事件と大きく重なるようなところもあって、正直動揺した。

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相模原の事件はあまりにもショックが大きくて、直視できないでいる。最近、差別についてあれこれ考えていたこともあるのかもしれない。

勘違いしてはいけないのは、同じような言説は犯人だけのものではないということ。以前から、それが“正論”のようにネット上で語り合われることで、助長され、何かのきっかけに暴走してきた(ここが、一人でどんどんエスカレートしていく『タクシードライバー』と大きく違うところ)。対象こそ違えど、その一つの表出がヘイトスピーチのデモだったと思っていたけど、蛮行もここまで来てしまった。

この期に及んでも、互いに刺激し合う様な、または意図的に刺激させるかの様な言葉がネット上には渦巻いている。一見仲間の様な感じだけど、なんだか面白半分に背中を押し合っているかのようでもある。行動に移すのと移さないのとでは大きな違いがあるのは確かかもしれないけれど、それは想像以上に紙一重なのかもしれない。

うどん作りと“飛ぶ”科学の日曜日

この日曜日は、久しぶりにオープン日。リクエストのあったうどん作りと、夏休みの自由研究のヒントにと“表面効果翼船”というものを作りました。

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まずはうどん作り。いつもは、キッチンで細々と作っているのだけど、みんながいると楽しいねぇ。

計量はしっかりと。強力粉、薄力粉、全粒粉を合わせてふるいます。

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あとはコネコネ…。体重をかけて「うーん!」

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そして、踏み踏み。ここが、うどんのコシと滑らかさのポイント。

「大人は重いからいいよね!」
「そうだねぇ。子どもは大人の倍の回数踏まないとね。軽いから」
「!!」

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「できた??」

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すべすべになって良い感じ!楽しみだねぇ!

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うどんの生地を寝かしている間に、約束していた“表面効果翼船”作り。

けど、その前に“飛ぶ”という言葉をキーワードに自由研究に繋がるようなものをいくつか紹介。

『1.飛ぶ→飛行機の歴史』

飛ぶ乗り物を思いつくだけ挙げる。

「ヘリコプター!」
「鳥人間!」
「鳥人間??」
「ほら、すごい自転車こいでるやつ」
「テレビの番組ね!飛んでる!飛んでる!」

そこから、飛ぶ原理の仲間分け。「オスプレイは?」なんて質問も出てきます。

そして、人間が空に飛ぶ歴史についても。

『2.飛ぶ→鳥→他の動物との違い』

鳥は鳥でも、飛べる鳥と飛べない鳥がいる。
「鳥が飛べるために、重要になってくることってどういうことだと思う?」

ここでは“重さ”をキーワードに、あれやこれや。ちなみに、飛ぶことのできる世界最重量の鳥は、“アフリカオオノガン”。それでも18キロくらい。

『2.の発展。鳥と他の動物との違いを出産という観点から考える』

「馬は、生まれてからどのくらいで歩けるようになる?」
「知ってる!1時間くらいでしょ!」
「じゃぁ、人間は?」
「え?2歳?」
「そんなにかからない!」

人間は、馬とかに比べて多くのことができない成長段階でお母さんのお腹から出てくる。それはどうしてだろう??

そこから、鳥の話に戻り、「鳥はどうして卵で生まれてくるんだろう?」へ。

卵の形から予想、ヒナの姿から予想、巣の様子から予想…。次々に出てくる!その一つ一つの予想について“理屈に適っているか”という視点で、ぼくから質問。大袈裟にいえば、一緒に予想を論理的に検証します。

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本当はそれぞれのテーマで、4~5回くらいに分けて授業をしてきたのだけど、今日は自由研究のさわりということでサッと。

「でもさ、いろんな情報を元に研究して、こういう意見を出しているだけで、別にこれが正解ってわけじゃないんだよ」
「え!違うの??」
「違うとか、合っているとかじゃなくて。どこかに“こうですよ”って説明書があって、鳥とかがいるわけじゃないでしょ?いろいろと、観察したり、考えたりして、その上で一つの理屈に適った捉え方ということ。だから、みんなの方がもっと納得のいく発見をするかもしれないんだよ」

教科書が与えられた“答え”というわけじゃない。これからみんなが謎解きに参加する可能性がたくさんある世界なんだね!

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そして、本題の“表面効果翼船”。これも、10年以上前、「飛行機はどうして飛ぶの?」という子どもの質問に応えて、授業作りをしている中で出会った教材なんだけど、とっても楽しい!

そもそもの「飛行機はどうして飛ぶの?」という質問に対して、よく目にする子ども向けの説明では説明しきれないことがたくさんあるというのが授業の出発点だったけど、これは上記のようなみんなが将来学術に参加する可能性の典型。

さておき。
“表面効果”とは、翼と地面・水面との干渉効果のこと。実際にこの効果を利用した乗り物の研究もされているようだけど、この日は工作用紙で模型作り。鳥取大学工学部の久保昇三教授がネット上に公開していた『表面効果翼船の模型「ラム」』のキット(改めてネットで検索したけれど、発見できず…)をプリントしておいたので、みんなは切る、貼るでおしまい。お手軽。

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あとは、固定したゴムにひっかけて飛ばしまします。

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紙飛行機のように飛ぶのではなくて、床の上を滑るように「スーって行った!」
進んでいくイメージはホバークラフトと同じだけど、原理は違います。

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壁の端から端まで届いた!

“飛ぶ”ということの疑問からここまで、みんなずっと楽しそうだったね!盛り上がった!

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表面効果翼船は一度片づけて、うどん作り再開。寝かしておいた生地を切ります。

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あとは、家族の皆さんをお呼びして食事会!

「美味しい!」
「うどんも作れるなんて、すごいなぁ」

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「見て!一番長いの!ナガナガ子!」
うどんの名付け親にもなりました。

皆さん、満足のお味だったようで良かったね!体力勝負の作業を根気強く頑張った甲斐があった!!

盛りだくさん、満足、満腹の日曜日でした!

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おまけ。

“飛ぶ”ということの話を整理しながら聴いていたのは、

あぁ 人は昔々 鳥だったのかもしれないね
こんなにも こんなにも 空が恋しい

という中島みゆきの『この空を飛べたら』という曲。人間にとって、“飛ぶ”というのは、よく出てくる、夢や憧れというような言葉に加えて、さらにいろんな複雑な感情を呼び起こす言葉なのかも。

そんなで、“飛ぶ”という言葉から、詩の世界への授業も楽しそうだなぁと考え中です。

再考

前回の記事に書いたことを、ふとした時に考えている。何だかグルグルして収拾がつかないのだけど、一度メモの代わりの意味も含めて、まとめておこうと思う。

乱文極まりないけど、お付き合いいただける方は是非。

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何でそんなに気になっているのかというと、『ちびくろサンボ』が本屋から消えたと聞いた当時、「え?なんで?」という風に思ったのを覚えているからだ。あの時の気持ちはいったいどうして出てきたのだろう…と。

小さい頃には、『ちびくろサンボ』は、身近な絵本だった。トラがグルグル回ってバターになる…なんていうのは、未だにはっきりと絵を思い出すことが出来るくらいで、かなり慣れ親しんでいた。日本の昔話でもないし、西洋の童話とも何か違う。なんだか不思議な世界観に、特異な印象を持ったのかもしれない。

発売禁止のニュースを聞いた頃には、黒人差別のことなども当然知っている年齢になっていた。けど、その知識・思想は『ちびくろサンボ』が発売禁止になったという出来事と繋がり得なかった。

それは、幼い頃から、無邪気に身近なものとして存在していたから故なのかもしれない。

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その後、再版の際などに改めて思い返し、ただただ漠然と「いいのかな?」と後ろめたさを持った疑問を持つようにもなったけど、特に調べたりすることもなかった。

当時は、「黒人を描くこと自体がいけないのか」というような過剰反応としての意見だったり、日本で急にダメになった…というような話を聞いたりしたけど、それを否定するような積極性も自分は持っていなかった。

今となれば、ちょっと調べてみれば公民権運動の流れといった意見も出てくる。そして、漠然とした疑問の中心にあった『ちびくろサンボ』という表題自体も、考え直さないといけないのかもしれない、と思う。

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差別というのは、意識した悪意に基づくものよりも、無意識のうちに思考の柱になってしまっているものの方が基礎になっているのかもしれない。それは何の悪意もない幼い頃から身近な上の世代から受け継ぎ、日々積み重ねられ、知らず知らずのうちに強固な思想基盤として個々人の無意識下に存在し、本人も意識しないうちに被差別者に対して矛先をむけてしまっていることに繋がっていく。無意識に生活の一部分、認知の仕方に存在しているからこそ、“息をするような”行動になってしまう。

これは、知識として持つようになる一般的な「差別」という言葉に集約される意識・行動ではなく、例えば、自分の立ち位置から見て、特定の人種、特定の社会層、特定の国、特定の思想…といった風に、個々別の対象への“認知の偏り”や、はたまたその逆にあたる“認識の欠如”に寄っている。これゆえに、差別一般に対する揺るぎない倫理観と、特定の対象を持った“局地的な差別意識・もしくは倫理観の欠如”の併存が個人の中に見られて、思わず戸惑う様な場面に出会うことが珍しくないのかもしれない。

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差別と無意識との構図を見つめ直してみると、よくある同和教育などに対する「寝た子を覚ますな」という批判は不適当ということになって、一度しっかりと意識の上に出して正面から向き合うという過程は必要ということにもなるのではないだろうか。

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「差別はいけない」と言葉を発することは簡単だけど、この言葉が差別をなくす手立てとなるには余りにも心もとない。本当に「差別をなくす」ということが広く押し並べて個人の行動の規範、そして社会の基盤となるためには何が必要なのか。それは、例えば、日本には日本で根強い差別、アメリカではアメリカで根強い差別といった風に、足元を見直すということがその第一歩で、この一歩を自分で見つめた上で最も必要なことは、世代間で受け継がないという意識を同世代間で共有することだろう。そして、これは、歴史を経て一歩一歩前進してきた思想の成長を後退させないということに繋がると思う。

ただ、何度も書いている通り、無意識下に浸みついているという前提があるのであれば、足元を見直すも何も自ら発見することも容易ではなく、外からの刺激がなければ自認し難いということになる。せめて、気付いた時にどうやって自分に楔を打つのか。それだけが、少しずつでも自分の中に染み付いている差別をはぎ取っていく岐路となる可能性を持っているのだろう。

強い、強い自戒の念を込めて。

『独裁者の部屋』

参院選挙が終わってからまだ一週間余りしか経っていないけれど、いろいろなことがありすぎて、ずいぶん昔のことのようにも感じます。

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先日、そろそろ寝ようかなと思っている時にふとチャンネルを変えたら、『独裁者の部屋』という番組が。その日は全8話のうちの5~6話が放送されていたので、何が何だか解らないまま観ていたのだけど、いろいろ調べたらそもそも何だかよく解らない状況下に置かれた若者のドラマ(リアリティショー??)ということだったみたい。簡単に言うと、スウェーデンの若者8人が、様々な自由を奪われた状況下で、賞金を懸けて生き残りを目指し、争うのではなくて共同生活を行う、という感じだろうか。

何の気なしに見ていたけれど、結局一時間くらい寝る時間が延びてしまった。

番組を作ったプロデューサーのコメントは、上記リンクにて

「独裁者の部屋」は若い視聴者、特に政治には関心がないという若者たちに、民主主義の価値について考えてもらうことを目的とした番組です。また、民主主義の大切さと、それを達成するための市民参加の必要性について議論を巻き起こしたいという狙いもありました。こうした狙いを実現するために、思い切った手法や挑発的な内容にしました。
市民の権利と自由が制限された独裁体制下での暮らしはどんなものなのか。さまざまな状況に対して、彼らはどんな選択をするのか。生まれて初めて民主主義の世界を離れた彼らは、人間としてどう変わってゆき、これまでの生活をどう見つめ直すのか。この体験を通して彼らが考え、そして視聴者が考えることが、この番組の目指すべきところだと考えています。

と紹介されている。

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少し前に、『パッチギ』という映画があった。京都を舞台に、日本の高校生と朝鮮高校の高校生の恋愛と抗争を描いた映画で、「井筒さんも良い映画作るんだね」と今は亡き飯島愛が絶賛していたことも何故だか妙に記憶に残っているのだけど、映画そのものじゃないところでも何かと話題になった。

いろいろとコミカルに描かれているところもあって、中には「必要ある?」とちょっと首を傾げるようなシーンも確かにあるのだけど、ふと耳にしたのは「日本の不良の描き方がふざけ過ぎていて、バカにし過ぎている」という意見で、単純に終わりまで観切った自分としては、世間ではどんな感想が渦巻いているのか気にもなる映画だった。

実際の社会において、映画で描かれているような“あからさまな侮蔑”というのは、映画中のまさに「あぁいう感じの人」が行っていたという面があって、他の多くの人達からしても「何アレ…」という視線の集め方をしていたという表現でもあるのかもしれないと思う。それよりも、酒に酔った主人公を自宅まで送った朝鮮高校生の制服姿に対して、主人公の母親の方が彼女の頭の天辺から足の爪先まで送った何とも言えない視線の方が、無意識で自覚を持ち得ない蔑視という典型的なものだと思ったりもする。

映画に対して真っ二つに分かれる感想が多い中、
「あの映画に出てくる在日の高校生たちはほんの一握りの存在で、他の多くは、目立たないように、とにかく波風を立たせないように生活していた」という小さい声がひっそり紛れていたことが一番印象に残っている。

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『独裁者の部屋』の6話の中で、黒人の女性が「“ニグロボール”というお菓子があるけれど、あれは侮蔑的な表現だし、そう呼ぶべきではない」という様なことを言ったことを皮きりに、一人の白人女性と口論になるシーンがあった。

白人女性は、何でそのお菓子の呼び方を変えなければいけないのかという前提で、「自分は差別主義者じゃない。けど、自分には思想の自由があるし、差別の意図はない」というような主張をし、黒人女性とのやり取りは平行線を辿るのだけど、途中、両親が移民としてスウェーデンにやってきたという男性もやり取りに加わったりもしたものだから、夜中のテレビから目が離せなくなってしまった。

この番組の主旨は上記引用にあるようなものなので、人種差別や移民について焦点を当てたこのシーンは付帯的なものなのかもしれないけれど、今日この国でもいろいろなところで目にする差別という言葉を絡めた様々な軋轢の構図(特に、被差別者がその差別に対して深める思考の域と、逆の立場の人のそれとの違いという前提を含めて)を、かなり解りやすく簡潔に且つ的確にまとめてあった。テレビを観ながら、多くの差別は、差別をする側の意識の中に明確には存在しないのだけど、その矛先に常に立たされている被差別者にとってはそれを意識しないで生活することはできないので、思考の域に大きな違いが出ることも必然なのだろうと思ったり。

まぁ、何ともこんな風に強烈だったので、翌朝目が覚めてからもこのシーンが頭の中を反芻していて。一昔前に話題になった『ちびくろサンボ』やカルピスの商標の問題などを含めて改めて考え直したりしている。やはり、当事者ではない人間が「過剰反応だよ」と言うのは、ドラマの中の白人女性の主張を正当化することに繋がるのかもしれない。

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キッチンのお客さんで、映画の好きな方がいて。

「最近は、何だか何も考えなくていいような映画ばっかり観ちゃうんですよね」なんて話をしていたら、エンターテイメントではなくて社会的テーマなどを扱った映画を「その映画、面白いんですか?」と聞く若い人が多いと言っていた。そのお客さんも若い方なので、近ごろの若い者は…というありきたりな話ではないのだけど。

そして、
「面白いとか、面白くないとかじゃないんだよ。映画っていうのは、哲学だから」と言って、いろんな映画を紹介してくれた。

『独裁者の部屋』もその終わり方を含めていろんな意見もあるようだけど、中でも目立つのは“誰が勝ち残るのか”という視点で観ていたということで、番組を作った人の社会的意義への意図がぶっ飛んでしまっていた。個人的には、与えられたストーリーとしてではなく、見ている側の思考を呼び覚ますような問題提起を再確認しながら、最初からもう一度観てみたいと思ったのだけど、今回が再放送のようでした。

あ。
思考を呼び覚ますような問題提起…というのは、授業作りの基本と同じだなとも思いました。

雑感~選挙の前に

少し前のイギリスのEU離脱のニュースを耳にした時には、思わず「えー!」っと声が出てしまった。なんだかんだいっても残留だろうという風に予想していたからで、勝手に結果を決めつけながら「街中でこんな風に政治について主張し合えるっていいねぇ。イギリスは」なんて言っていたのも、ただ呑気なだけだったということに。

その後、いろいろとお世話になってきた方からメールもいただいていた。“複雑なものを単純化して二者択一にするとこんなことも起こる”と書き始めてあり、その方が以前“複雑な背景を複雑なものとして検討する立体感が大事”とアドヴァイスしてくれていた言葉の逆を、そのまま国という単位で体現したような国民投票だった。

“日本の有権者がBrexitから学んでくれますように”とも書いてあったのは、社会を取り巻く様々な不平不満を「EU残留か否か」という選択へと一極集中的に転嫁させたことが果たして正当だったのかどうかは、当事者であるイギリス国民よりも、目の前に選挙があるこの国の人の方が、考察し自らの行動に反映させることを喫緊に迫られているということなんだろうなと受け止めている。

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それにしても。

社会が上手くいっていない理由を探し始めると、その矛先が移民などマイノリティの立場にある民族性に向かっていく傾向があると改めて感じる事態が、イギリスだけではなくてアメリカやこの国にも散見されている。ただ、この様なことは、全てが上手く行っているように見える時にもマイノリティにしか感じ得ないレベルで必ず存在していて、社会の不安定さがそれを露骨な行動へと助長することによって、やっとマジョリティの一部の人達にも気付き得るようになるのだろう。

これは、数年前からこの国にあるヘイトスピーチに当てはめてみれば、あれはほんと見るに堪えないものだったけれど、あの様子と一緒に流れてくる「昔から飲み屋に行けば、あんなことはたくさんあった」という当事者の声は、社会で認識できるほどの下劣な行動に移った今だからこそ、耳を傾ける人が増えたとも言える。以前は「まぁ、あんま気にすんなよ」という静かながらも暴力的なまでの無自覚が、矛先に晒されている当事者にとってどんなことだったのか、少しでも接近できる転機になったかも。

決して喜ばしい機会ではないけれど、こんな時勢だからこそ、かつて平等という概念や人権という概念が生まれたのと同じくらいに大きな前進を、未来の歴史から求められているという責任感が必要なのかもしれない。

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最近のこの国の一部の政治家を見ていて目立つのは「何でもいいから当選しちゃえばこっちのもの」ということで、これを恥知らずにも海外に向けて行ってしまったのがオリンピック誘致だったと思っている。
確認しておかなければならないのは、選挙中に訴えている内容は「票が集まる主張」=「市民の望みである」ということを候補者はしっかりと認識できているということであって、当選後にそれを翻すということの意味も当然ながら自覚出来ているということ。

もちろん、選挙中には言わないでおこう…という逆パターンがあることは言うまでもなく、今回の選挙に関して言えば憲法改正がそれの一つにあたる。普段、改正案を片手にしながらあんなに熱心に改憲を訴えている人達が、本来なら最もアピールすべき選挙戦の舞台で口を閉ざす。その結果が、これ↓

【参院選 土佐から】改憲への「3分の2」 高知で83%意味知らず

憲法改正と言えば、イコール9条のことのように扱われるけど、9条は解釈改憲、安保法制で既に事実上骨抜きにされてしまっている。じゃぁ、それでも憲法改正、憲法改正と言っているのは何故なのか。冒頭のメールの話の様に、論点にされやすいところに注意力を集約させすぎないようにしなければならないと思っています。

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この国では、政治の話をするのはタブーになっていて、ましてや教育の場で子どもと話そうものなら「偏向教育!」と言われかねない状況に。そんな目を意識してか、政治という言葉の表層のフワフワした部分を当たり障りなく話すのが教育の場で行うことが当然のことに。

これでは、政治がどれだけ自らの足下にある生活に密着しているのかという具体的な視点が欠落してしまうので、「政治なんて自分のことではない」という意識がどんどん広がっていってしまうだろう。政治については口を噤んでしまう大人の姿は、子どもを政治からどんどん遠ざけてしまうことになる。本来、教育の場において、他の人がどういう風に考えているのかを自分の中で反芻するのに政治というテーマはうってつけだと思うから、互いにどんどん意見を出し合うことは様々な面で意味があると思うのだけど。どうでしょうかね。

一つ言えることは、「先生に言われたから」ということで思考が固まるほど子どもの判断力は稚拙ではないということ。

こんな風に書いている横では、テレビで新しく有権者になった年代にインタビューをしていて、高校生が候補者に対して求めることを「有言実行。それを見て考えて投票するんだから」と言っていた。

「そのとおり」と声が出た。