子どもが泣いている写真がある。
この写真の背景には、砂の山があり、そこにすがるように泣いている。これは、カンボジアで撮られた写真。
子どもが泣いている写真がある。
手には誕生日のプレゼント。
子ども達が泣いている写真がある。
子ども達はカメラに向かって泣きながら逃げるように歩き、その後ろには装備をした兵士がいる。これは、ベトナムで撮られた写真。
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出来事の情報を削ぎ落し、削ぎ落し、単純化していくと、隣の出来事とどんどん似通ったものになってくるのは当然のこと。いや、むしろそのように似通ったものにすることが目的で、それによって膨大な出来事を整理しようとしているのかもしれない。
ぼく達はそこに存在しているはずのいろいろな背景を知ろうとし、単純化されたものが本来持っていた立体感に近づいていこうと歩み寄ることによってのみ、その出来事の真に接近できるのだと思う。
この個々に存在している背景に接近していくのは、この出来事に触れることのできる人間の側が行わなければ存在しないアクションであって、これを行わずに“最大公約数”を探して単純化する方向性は、個々の背景からどんどん遠ざかっていくことになる。
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例えば、「熱は38度ですか。じゃあ、風邪ですね」とか、「初犯だから執行猶予ですね」とか。出来事を数値化し、そこから自動的に対応を導き出すことは、文字通り単純な作業だし、そこには考える必要が存在しない。
けど、実際には「風邪ですね、執行猶予ですね」の前には、問診などがあり、裁判などがある。専門家による、個々の事象への接近という過程がある。
そして、この過程において、整理された膨大な出来事が“個々への接近のために”活用される。
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“世界で最も自由な学校”と言われることのあるイギリスのサマーヒルの創設者A.S.ニイルの話を思い出す。
その学校には、他人の所有物には勝手なことをしないというような決まりがある(サマーヒルにおける決まりは、子どもも大人も同じ一票で決めていく)。この決まりによって、ニイルの所有物に子どもが勝手に触ることはできない(もちろん、ニイルも子どものものを勝手に触ることもできない)。
けど、新しく学校にやってきた男の子が、ニイルが普段は子どもに触らせず、施錠までして保管している大事な工具を壊しているとき、彼はじっとそれを見ていたそうだ。そして、
父親の道具を使って台無しにするのが、その子の積年の野心なのだとわかるからだ。
というようなことを言っている。まさに、子ども一人ひとりの背景に接近しようとした結果なのだと思う。
子どもの集まる場所は、この様な大人の判断が求められる場面で溢れている。その時に、“みんなと同じ様に”という(“平等”というかもしれない)方向性で自動的な対応をするのか、ニイルの様な個々の背景に接近した上で対応をするのかによって、正反対になる。
ぼくは迷いなく後者。
中には、こういう対応を「贔屓!」という子ども(時には大人)も出てくるだろう。全てを話はしないけど、どうして今の対応がみんなと違うかはもちろん説明する。けど、それでも「贔屓!」と言われたのなら、この言葉よりも大事な判断だと思うから、あとはこう答えるしかない。
「これを贔屓っていうなら、贔屓でいいよ」
教育の場において、“みんなを平等に扱う”という言葉の下で大人の行動を単純化していってしまうこと(マニュアル化と言ってもいい)は、裏を返せば“みんなが同じに…”という結果を子どもに求めるということ(大人が接近していくのではなくて、子どもに接近してくることを求めるということ)でもあって、子どもの個性からは遠ざかっていく。
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“また”と言ってもいいだろう事件が起きた。少し前から行方不明になっているということで、いろんなところで捜索の情報を目にしていて、「どうしたのかね、大丈夫だといいけれど…」と、いろいろなところで話題に挙がっていた。
けれど、最悪の結果になった。
ニュースになってから、“他にもいろんな事件があるのに、この事件だけ特別扱いするのは、ただ基地反対のための政治利用したいだけだ”という意見が、普段からこの様な政治的発言をしている人達だけではなく、自分の目にできる範囲でも思いの外多くて(多く見えて)ビックリした。そして、こういう意見を、どこか「冷静で、理に適っている」という風に扱う雰囲気も感じてしまい、胸が重くなった。
今回の事件について、“他の事件と同じ”、“他の職業にだって不祥事がある”といったように押し並べてしまう方向性は、今までの多くの背景を無視することに繋がり、それは今回の事件への接近とは真逆なものになる。
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去年のフランスでのテロの後、以前お世話になった方から、“複雑なものを複雑なものとして検討する立体感が大事”というメールを頂いたことを思い出す。
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あまり文字にしたくないけれど…。
恐怖の中、自分の身を危険に追いこんでいる相手が、外国人だとわかった時に彼女はどう思ったのか…と想像してしまう。もしもそこに、沖縄という土地ゆえに頭の中をよぎる言葉があったとしたのなら、たとえそれが微塵であったとしても、あまりに苦しい。