ラーメン二郎というラーメン屋さんがある。大盛りで油も化学調味料もたっぷりのここのラーメンは、店主自らが「昨日も食べてたでしょ?もうダメだよ、ドクターストップだよ!」というくらいのシロモノで、ぼくも習慣の様に食べていた一時は明らかに太っていって、成人病へのエスカレーターを全速力で駆け登っているような感じだった。
今となっては、そこまで頻繁に食べる環境になくなったので、体重の増加は幾分か和らいだけれど、食べる量が増えたことだけは間違いない。
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実際に中に入ってみて改めて実感したけれど、チェーンの飲食店というのはマニュアル天国だ。あっちの店舗とこっちの店舗で味が違ったらサービスに差が出来てしまうというのはわからないでもないけれど、誰にでも(アルバイトにでも)同じ様な料理を提供できるようにと作られたマニュアルというのは、やっぱりそれなりの味を生み出していく。
作る方は何も考えず、とにかくひたすらマニュアル通りに調理を続けていくことだけが求められる。こうしたらもっと美味しくなる…とかは、マニュアルから逸脱するということでご法度。代わりに求められる技術というのは、素早くご飯○○gを盛る、というようなこと。
入ってくるもの、そして作る人を通して出ていくものが常に同じなので、技術やコストの面から見てロボットの代わりと言っても言い過ぎではないかもしれない。
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ラーメン二郎にハマってしまっていた頃は、あっちの店舗とこっちの店舗にも行ってみようと車を走らせたこともあった。このお店はのれん分けされた先で、店主が独自に味を改良していくらしく、近所にあった店舗の店長はテレビに出て「○○県産のニンニクに変えてみた。お客さんは分からないかもしれないけれど」みたいなことを言っていた。
ここまで細かくなくても、味はもちろんのこと、量ですら同じ店名でも店舗によってそれぞれなので、いつも食べている店舗のつもりで注文したら想像以上の量と格闘する羽目になり、食後しばらく動けなくなる…ということも珍しくなかった。
こんな風に、同じ店名なのに、店舗それぞれに個性があるというのが大前提の不思議なお店だった。
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何度か書いているけれど、相談職についていたことがある。ぼくは直接関わらなかったけれど、自分達のマニュアルを作るというのはすごく大変そうだった。そこの場合は、心理学的見地に加えて、越権になるようなことは避けるというようなことや、平等な対応をするために必要なこと…などの視点があった。なので、出来上がったものは、マニュアルというより“決まり”に近かったのかもしれないけれど。
これに対して、いろんな研修に行ったり、本を読んだりしていると、“まさにマニュアル”というものに出会うことがある。一言でいえば、「~~と相談されたら、○○と答えると良い」といったもの。こういう“受け答え集”が、次第に「△△先生が○○と答えるといいって言っていた」というように広まることもあって、そうなると相談を受ける側は考えるのではなくて“受け答え集”を思い出すことが意識のベースになっていき、しまいには自分の答えたことについて責任を持たないようになってくるのでは?と思うことすらあった。
相談者一人ひとりの状況は違うはずなのに、それなりに収まる“受け答え例”というのは、かなり大雑把な公約数でしかないので、毒にも薬にもならない…という印象だったり。
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ちょっと脱線。
教育実習は、母校の高校に行った。
「自分のやりたい授業の計画、簡単でいいから持って来て」と指導教諭に言われたので、3回か4回続きの授業なのにA4ぺラ一枚だけ提出してOKだった。授業の内容は中世ヨーロッパが中心にして、“ピレンヌのテーゼ”という考え方と教科書の記述との違いを考えるという導入から始めた。
今となっては自分としてもあやふやだったなぁと思う授業だったけれど、自分の高校時代を思い出すような生意気な生徒とあれやこれやとやり取りをしながら賑やかな授業にはなったと思う。授業自体が賑やかで楽しかったのは、自分が大学で受けていたピレンヌのテーゼの講義が、ぼく自身衝撃的だったということも理由にあると思う。その教授はイスに座ったら一歩も動かずにひたすら話し続けるという人だったけれど、メモを取っているこっちが興奮して来るような内容だったから。
こんな風に、かなり自由にやらせてもらった教育実習だっけど、最後には「良いまとめ方で、良い授業だったね」と指導教諭に声をかけてもらい、生徒の感想メモもちょっとウルウルとしてしまうようなものだった。その後はいろいろと授業をしてきたけれど、この教育実習での授業は今でも印象深い時間になった。
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ちなみに、「授業案、大変だったらアンチョコもあるんだよ」という指導教諭もいたらしい。それ通りに進めれば、授業も板書も全てがとりあえず形になるというもので、その教諭自身も自嘲気味に言っていたようだ。
この“アンチョコ”というのは、マニュアルのことだろうし、実際それに沿って授業をしているということも珍しくないと思う。いや、むしろ、このマニュアルを求めている人の方が多いと感じることすらある。で、やっぱりマニュアルから導かれるものというのは、“それなりの”物になる。
例えば、受験のために数学を教えていて、平均点をクリアさせようとしたら計算問題を間違えないようにする、ということに尽きる。それで、いわゆる偏差値50前後に収まるから。これが、マニュアルの生み出していく“それなりの”物の象徴だと思う。自分で考えているようだけど、思考とは違う類のもの。そして、これは計算問題以外の問題も本質的には変わらない。マニュアルに沿って教えることは、マニュアル通りに考える子どもを生みだしていることになっていく。いや、“考える”という言葉が相応しいのかどうかもわからない。
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マニュアルから脱却してオリジナリティあるものを生み出すには、対象に向けて自分自身からの働きかけ、研究が必要になってくる。ただ、マニュアルから外れることが許されない場所が増えていることも事実で、それに慣れると次第にマニュアルがないと何もできなくなってしまう。まずは、マニュアルを探し、思考を交えることなくその通りに行動し、その結果の責任はマニュアルに求めていくという風に。
こんなしがらみを振り払うためには、個人として生きていく覚悟が必要なのかもしれないとも思う。そんな風に思っていると、なぜだか高校時代のおじいちゃん先生が言っていた、
「いいかい、勉強はこれからだよ。今は勉強のための準備に学校に来ているんだよ。たくさん勉強せいよ」
という言葉が頭をよぎった。