
送っていただいたビデオを観ている。おススメだった『飢餓海峡』も観た。いろいろと社会状況が整っていない戦後間もなくのゴタゴタの中で、人生を大きく変える人…。松本清朝の小説でもよく取り上げられる構図だけど、この映画ではさらに女性が娼婦になって家族の生活を繋いでいくということが生々しくて、観ていて落ち込んだ。
それにしても、左幸子さんってこういう役者さんだったんだと初めて知った。若き日の高倉健さんも出ています。
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数年前、仙台にお墓参りに行き、その翌日には朝早くに出発し、石巻、東松島、南三陸とレンタカーで被災地を回ってきた。仙台に戻ってきた頃は夕方で、ラジオからは大相撲の千秋楽が流れている。結果、モンゴル出身で日本に帰化した旭天鵬が優勝し、「久しぶりに日本人の力士が優勝!」と流れてくるも「国籍は日本ですから」みたいな言葉がついて回り、何だかオカシナ雰囲気だったのを車からの風景と共によく覚えている。
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「なんだかんだ言っても、世界には良い方向に進んでいる部分もある」と、キッチンのお客さんが言っていた。
これは、映画『告発の行方』や、実話に基づくというシャーリーズ・セロンの『スタンドアップ』(これは観たことがない。セクハラを初めて告発した話だけど、セクハラっていうレベルじゃない、とのこと)の話をしている中での言葉で、“良い方向に進んでいる部分”というのは、これらの映画の中で表現されている当時の社会の闇が、現在社会では許されないこととして認識されるようになったということだった。
確かに、人類の文化の進歩に違いない。
例えば、たまに「何でもかんでも“ハラスメント”だな」と嘲笑気味に言う人もいるけれど、こういう人は決まって“ハラスメントする側”の人であったりする。「それってセクハラですよ」と周りが認識できるようになったという現実ですら理解できないのかもしれない。けど、多くの人はこの言葉を生活の中で共有する社会になった。
冒頭の『飢餓海峡』の中では、“赤線”の廃止について話し合うシーンがある。それを見ていて、“赤線”って制度としてあったんだ…と実感したけど、お客さんの言う“良い方向に進んでいる部分”の一つを確認した様な気持ちにもなった。(ただ、これに関しては、廃止しただけでは済まない問題が、今日にも続いていることは忘れてはならない)
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この前はちょっと気分を変えようと、洋画。クリントイーストウッドの『トゥルークライム』を観た。冤罪を巡る映画で、ストーリー自体は珍しい展開ではなかったけど、終盤の死刑の場面が結構強烈だった。『グリーンマイル』みたいに昔の描写ではなく、『ダンサーインザダーク』みたいにドキン!とするショックだけが残るというのでもない。ただ、こうやって死刑執行って進むんだな…と。
死刑制度については賛否両論ある。僕は以前反対と書いた。(→最高裁判所裁判官の国民審査から“死刑制度”のこと)
この記事の最後には、誰にも必ず訪れる“死”というものに一部犯罪者の“死”に“罰”という特別な意味を持たせるということに疑問があるというようなことを書いた。
けど、今回この映画を観ていて、改めて人権という視点から死刑制度を考え直そう、と。悪いことをした人だから何をされても仕方ないという思想の延長であるとしたら、それは国家の在り方として果たしてどうなのか。自分の大切な人に何か起きた時に、自分が暴力的な思考に陥ることは容易に想像できる。ただ、法律というのは全ての感情的なものを超えた存在であるべき(無感情・無慈悲であるべき、ということではない)であって、それ故にこの暴力的な思考を良しとする様な決まりは存在してはならないのだと思う。
『トゥルークライム』では、衆人環視の中、死刑執行の“薬”が次々と自動的に投入されていく。昔は、日本においては、それこそ“さらし首”が死刑だったと思い返す。もしも現在も“さらし首”を制度として持っている国があったらどう感じるだろう…とも。そう考えると、「これは良くない」と引き継がなくなったのは文化の成熟度の結果だと。現在、死刑制度を廃止している場所もあるけれど、この映画中の“坦々と進められる死”と“さらし状態”を目の当たりにすると、当然の流れだとも思う。
(“死刑阻止”のためには何でもする、みたいなものにはもちろん反対です。目的達成のためには手段は選ばないというのであれば、それは死刑を良しとする思想と根本では繋がってしまうと思うから)
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この前の大相撲初場所も見ていた。
終盤になって、琴奨菊を優勝させたいがために、白鵬に黒星をつけさせようと対戦相手を応援する…という声援が会場中に響いていたりして、これって国技だからなのかなとシラけてしまった。以前にも同じ様なことがあったので、嫌な予感はしていたのだけど、やっぱりかと。そして案の定、数年前に「久しぶりの日本人力士の優勝」と言っていたのが、数日前には「10年ぶりの日本出身力士の優勝」と大騒ぎになって、ますます冷めてしまった。力士、本人達には何の罪もないのだけど。
“外国人力士”絡みの心ない話というのはちょくちょく目にするし、テレビの解説に「それって○○人とか関係ないじゃん!」とか突っ込んだりしているのだけど、その度にテレビ番組の腕相撲大会にモンゴルの民族衣装を着て登場した白鵬を見てちょっと感動したことを思い出す。彼はいろんなところで闘っているのかもしれない、と。
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教育実習では担当教員が「何でもいいよ」ということで、ヨーロッパ史を取り上げた。中世の、特権、自己完結性といったバラバラの社会が変革していく大きな原動力には、“平等”という思想の広まりがあったというような流れだったと思う。“バラバラ”から“みんな同じ”へ。
同じ様な授業は、フリースクールでもしてきていて。当たり前のように存在している“平等”とか“自由”とか言う言葉が存在し、それが広く全ての人達を対象にしているものだと考えられるようになったということは、長い歴史の中で多くの知恵と経験と命を積み重ねに積み重ねてきて、今生きている人にもたらせてくれた産物なんだと。
「昔はそんな発想すらないんだよ」というと、子どもにとっては「う~ん…??」とちょっと想像もつかないような。けど、老人が聖職者と貴族を背負うアンシャン・レジームを風刺した絵から感じとるものはあったようです。
思想の遺産。無形だけど、大切に大切にしていかないと風化してしまいます。
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社会のどこかで虐げられている存在、虐げられているいうほどじゃないかもしれないけど不当に何かを我慢させられている存在に対して、一つ一つしっかり見つめ直した結果が現代なのだと思う。そして、今でも見つめ直さなければいけないことも、まだまだたくさんあるのだと思わなければいけない。
例えば、“みんな同じ”ということが、“同化を強いる”ということで止まらずに、“一人ひとり違う”という前提を大切にした関わり方も当たり前のようになりつつある。大相撲も世界から力士を集めて盛り上げているのであれば、そういう視点が必要だと思うがどうだろう。上述の様な会場の盛り上がり方というのは、その発想からいって文化の成熟とは真逆に進んでいると思う。日本古来の…というところに拘るのであれば、歌舞伎などのように閉ざされた世界のままの方が適切なのかもしれないとすら思う。
それにしても、今のこの国は、何世紀も前のアンシャン・レジームの風刺画が過去のものとは言えないような状況になってきている気もする。“良い方向に進んでいる部分”が確かにあるのだから、それを後退させず、さらに進めていく確固たる意識が必要なのかもしれない、と。知性に基づく文化的な存在でいるためには。