親子手打ちうどん教室!

今日は、親子うどん教室を開催。
雨が降ったり止んだり中、お集まりいただきました。

キッチンでもメインのメニューだからこういう言い方はあまりしたくないけれど、分量をある程度合わせて、こねて踏む、という作業を頑張れば失敗しません。必ず美味しく出来上がります。

小さい子でも一緒に作業ができる、パスタマシーンを使います。今日初めて会ったお兄ちゃんがしっかりサポートしてくれました!頼もしい!!

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作業の合間には、割れないシャボン玉作り。ちょっと細かい作業もあるけれど、お母さんと一緒ならば大丈夫!

「目がキラキラしてる!」とは、本人以外全員の言葉!

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真剣そのもので作っています。丁寧!

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うどんは出来上がったら、打ち立て切り立てその場で茹でていきます。

最初は玉子かけご飯のうどんバージョンである“かまたま”。

「おいしー!おいしー!」
これは、うどんの味がしっかりしていると美味しさ倍増!

「玉子、おかわり?」
二個目の生卵投入…。
「ロッキーになっちゃうよ…」

あとはうどんを水でしめて、肉汁うどん。
「これ、どうやって作るの?」
つけ汁の作り方を紹介。ぜひともおうちでも作ってみてね!

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今日は、お土産うどんと割れないシャボン玉をお持ち帰り!
賑やか、楽しい、美味しい2時間でした!!

雑感~映画と大相撲から

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送っていただいたビデオを観ている。おススメだった『飢餓海峡』も観た。いろいろと社会状況が整っていない戦後間もなくのゴタゴタの中で、人生を大きく変える人…。松本清朝の小説でもよく取り上げられる構図だけど、この映画ではさらに女性が娼婦になって家族の生活を繋いでいくということが生々しくて、観ていて落ち込んだ。

それにしても、左幸子さんってこういう役者さんだったんだと初めて知った。若き日の高倉健さんも出ています。

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数年前、仙台にお墓参りに行き、その翌日には朝早くに出発し、石巻、東松島、南三陸とレンタカーで被災地を回ってきた。仙台に戻ってきた頃は夕方で、ラジオからは大相撲の千秋楽が流れている。結果、モンゴル出身で日本に帰化した旭天鵬が優勝し、「久しぶりに日本人の力士が優勝!」と流れてくるも「国籍は日本ですから」みたいな言葉がついて回り、何だかオカシナ雰囲気だったのを車からの風景と共によく覚えている。

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「なんだかんだ言っても、世界には良い方向に進んでいる部分もある」と、キッチンのお客さんが言っていた。

これは、映画『告発の行方』や、実話に基づくというシャーリーズ・セロンの『スタンドアップ』(これは観たことがない。セクハラを初めて告発した話だけど、セクハラっていうレベルじゃない、とのこと)の話をしている中での言葉で、“良い方向に進んでいる部分”というのは、これらの映画の中で表現されている当時の社会の闇が、現在社会では許されないこととして認識されるようになったということだった。

確かに、人類の文化の進歩に違いない。

例えば、たまに「何でもかんでも“ハラスメント”だな」と嘲笑気味に言う人もいるけれど、こういう人は決まって“ハラスメントする側”の人であったりする。「それってセクハラですよ」と周りが認識できるようになったという現実ですら理解できないのかもしれない。けど、多くの人はこの言葉を生活の中で共有する社会になった。

冒頭の『飢餓海峡』の中では、“赤線”の廃止について話し合うシーンがある。それを見ていて、“赤線”って制度としてあったんだ…と実感したけど、お客さんの言う“良い方向に進んでいる部分”の一つを確認した様な気持ちにもなった。(ただ、これに関しては、廃止しただけでは済まない問題が、今日にも続いていることは忘れてはならない)

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この前はちょっと気分を変えようと、洋画。クリントイーストウッドの『トゥルークライム』を観た。冤罪を巡る映画で、ストーリー自体は珍しい展開ではなかったけど、終盤の死刑の場面が結構強烈だった。『グリーンマイル』みたいに昔の描写ではなく、『ダンサーインザダーク』みたいにドキン!とするショックだけが残るというのでもない。ただ、こうやって死刑執行って進むんだな…と。

死刑制度については賛否両論ある。僕は以前反対と書いた。(→最高裁判所裁判官の国民審査から“死刑制度”のこと
この記事の最後には、誰にも必ず訪れる“死”というものに一部犯罪者の“死”に“罰”という特別な意味を持たせるということに疑問があるというようなことを書いた。

けど、今回この映画を観ていて、改めて人権という視点から死刑制度を考え直そう、と。悪いことをした人だから何をされても仕方ないという思想の延長であるとしたら、それは国家の在り方として果たしてどうなのか。自分の大切な人に何か起きた時に、自分が暴力的な思考に陥ることは容易に想像できる。ただ、法律というのは全ての感情的なものを超えた存在であるべき(無感情・無慈悲であるべき、ということではない)であって、それ故にこの暴力的な思考を良しとする様な決まりは存在してはならないのだと思う。

『トゥルークライム』では、衆人環視の中、死刑執行の“薬”が次々と自動的に投入されていく。昔は、日本においては、それこそ“さらし首”が死刑だったと思い返す。もしも現在も“さらし首”を制度として持っている国があったらどう感じるだろう…とも。そう考えると、「これは良くない」と引き継がなくなったのは文化の成熟度の結果だと。現在、死刑制度を廃止している場所もあるけれど、この映画中の“坦々と進められる死”と“さらし状態”を目の当たりにすると、当然の流れだとも思う。

(“死刑阻止”のためには何でもする、みたいなものにはもちろん反対です。目的達成のためには手段は選ばないというのであれば、それは死刑を良しとする思想と根本では繋がってしまうと思うから)

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この前の大相撲初場所も見ていた。

終盤になって、琴奨菊を優勝させたいがために、白鵬に黒星をつけさせようと対戦相手を応援する…という声援が会場中に響いていたりして、これって国技だからなのかなとシラけてしまった。以前にも同じ様なことがあったので、嫌な予感はしていたのだけど、やっぱりかと。そして案の定、数年前に「久しぶりの日本人力士の優勝」と言っていたのが、数日前には「10年ぶりの日本出身力士の優勝」と大騒ぎになって、ますます冷めてしまった。力士、本人達には何の罪もないのだけど。

“外国人力士”絡みの心ない話というのはちょくちょく目にするし、テレビの解説に「それって○○人とか関係ないじゃん!」とか突っ込んだりしているのだけど、その度にテレビ番組の腕相撲大会にモンゴルの民族衣装を着て登場した白鵬を見てちょっと感動したことを思い出す。彼はいろんなところで闘っているのかもしれない、と。

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教育実習では担当教員が「何でもいいよ」ということで、ヨーロッパ史を取り上げた。中世の、特権、自己完結性といったバラバラの社会が変革していく大きな原動力には、“平等”という思想の広まりがあったというような流れだったと思う。“バラバラ”から“みんな同じ”へ。

同じ様な授業は、フリースクールでもしてきていて。当たり前のように存在している“平等”とか“自由”とか言う言葉が存在し、それが広く全ての人達を対象にしているものだと考えられるようになったということは、長い歴史の中で多くの知恵と経験と命を積み重ねに積み重ねてきて、今生きている人にもたらせてくれた産物なんだと。

「昔はそんな発想すらないんだよ」というと、子どもにとっては「う~ん…??」とちょっと想像もつかないような。けど、老人が聖職者と貴族を背負うアンシャン・レジームを風刺した絵から感じとるものはあったようです。

思想の遺産。無形だけど、大切に大切にしていかないと風化してしまいます。

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社会のどこかで虐げられている存在、虐げられているいうほどじゃないかもしれないけど不当に何かを我慢させられている存在に対して、一つ一つしっかり見つめ直した結果が現代なのだと思う。そして、今でも見つめ直さなければいけないことも、まだまだたくさんあるのだと思わなければいけない。

例えば、“みんな同じ”ということが、“同化を強いる”ということで止まらずに、“一人ひとり違う”という前提を大切にした関わり方も当たり前のようになりつつある。大相撲も世界から力士を集めて盛り上げているのであれば、そういう視点が必要だと思うがどうだろう。上述の様な会場の盛り上がり方というのは、その発想からいって文化の成熟とは真逆に進んでいると思う。日本古来の…というところに拘るのであれば、歌舞伎などのように閉ざされた世界のままの方が適切なのかもしれないとすら思う。

それにしても、今のこの国は、何世紀も前のアンシャン・レジームの風刺画が過去のものとは言えないような状況になってきている気もする。“良い方向に進んでいる部分”が確かにあるのだから、それを後退させず、さらに進めていく確固たる意識が必要なのかもしれない、と。知性に基づく文化的な存在でいるためには。

真冬の朝

埼玉にいる頃の真冬の間、車で出勤する日には普段より早く起きなければならなくて。なぜなら、フロントガラスが凍りついていて真っ白になっているから。最初は、「なにこれ!」と思わずワイパーをかけちゃったりして、サーサーっという音と共にかき氷を作ってしまっていた。もちろん、ガラスはさらに真っ白に。水をかけたこともあるけれど、溶けた横から凍っていく。

結局、エンジンをかけて霜を溶かすまで待つしかないということで、朝早くから車の中で白い息を吐きながらジッとしていたのでした。

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駅から徒歩20分くらいの所に住んでいたので、電車通勤の日に雪なんて降ろうもんなら悲惨なことに。雪国ではないので降雪への対応は何もなくて、誰も雪かきをしない道を歩いていく。駅に着く頃には足の指は凍りついていて、電車に乗って職場までいく元気もないけれど、今来た道を戻る気もなく。
「あぁ、昔は雪が降ると嬉しかったんだけどな…」と、全然関係のない所に気持ちを飛ばしていました。

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「明日雪が降るかもって。触ったこともないし、見たこともない」と言っているのを聞いて、あぁ沖縄は本当に雪が降らないんだなぁと再確認。不思議な感じ。

今日はちょっとみぞれが降ったという話が納得というくらいに寒い朝。久しぶりに寒くて布団から出られませんでした。気温は9度。10度を境にグッと寒く感じると言うけれど、その通り足元がしんしんとしてきます。こんな寒さだから人通りもほとんどなくて、キッチンも閑古鳥が鳴いています。寒い中、自分が食べたいものであろう“すいとん”を作っています。これだけ急激に冷え込むと体調に関わるかもしれないから、特別な用事がなければ家であたたまっていた方が良いですよ、と客商売ならぬことを思ったりしています。

ほんと久しぶりに真冬を感じています。

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雑感~児童虐待のニュースから

沖縄に来る前に住んでいた“埼玉県狭山市”の文字がテレビに出てきたので、「おっ」と見ていたら、虐待死のニュースだったので胸がずっしりとした。ニュースで流れる地名は「あの辺かな…」と風景を思い起こさせて、さらにずっしりが重くなった。

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虐待には、身体的、心理的、性的、ネグレクト…などといろいろな形があるけれど、ニュースに出てくるのは“事件”として扱われるような暴力ケースがほとんどなので、“児童虐待=身体的虐待(暴力)”という風に捉えられる傾向がある。

これは、暴力がなさそうだから大丈夫か…とか、所謂“キズアザ”が見受けられないから大丈夫か…という判断基準を広めてしまっている節もあって、「なんか変だな…」という直感を押し込めてしまう作用が見られることもある。

また、親の視線からすると、思わず「ダメでしょ!」とピシャっとしてしまったことを、「自分は虐待をしてしまった…」と周囲が想像する以上に落ち込んでいることもある。報道に乗るような悲惨な児童虐待の事件がある度に虐待に関する相談件数はグッと伸びていたけれど、それは近所に気になる子がいるということだけではなく、自分は虐待してしまっているのではないか…と涙ながらに語る母親の声も珍しいものではなかった。

地域で子どもを育てる…というように、多くの大人と多くの子どもが有機的に関わっていくことを良しとするならば、児童虐待についてもニュースで流れている“目を引く残酷な事件”と単純に直結させるのではなく、もう一歩踏み込んだ“子育ての情報”という大きな視点に組み込み、見つめ直す機会があってもいいと思う。

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以前も書いたと思うけど、最近は児童相談所を糾弾する記事をよく目にするが、それは親からの訴えによるものが多い。子どもは既に保護されていることも多く、また年少の場合も珍しくないので、子どもの声や様子も親からの情報に依っている。

例えば、保護されている子の親が「うちの子は身体の○○が弱いのに、ちゃんと対応してくれない」などという訴えたりしていることがある。保護先で、一通り診察をして子どもと話をしても、その訴えに該当するものがない。それを親に伝えると、親は外に向かって訴える。そこに周りが「ひどい!」と反応することは、親のその意思を確固たるものにしていく。

以前、人知れず入院中の実子の点滴に毒を入れて、自分は病気の子どもを熱心に看病する母親…という目を周囲から得ていた事件があった。代理性ミュンヒハウゼンという言葉もその時パッと表に出てきたような気もする。これは、ようは、自己実現や周囲からの同情・承認のために他人を傷つける、といったもの。代理性ミュンヒハウゼンは、“捏造”の被害対象がこの事件のように子どものことが多いけれど、実際に子どもの様子を見知ることのできない関係性の場合は、ただの“情報捏造”の場合もある。

問題は、その情報を聞いて「なんてひどい!」と周囲が同情することを本人は期待しているので、この様な反応は本人の行動をエスカレートさせてしまう可能性が大きいということ。最近はネット上でいろいろなやり取りを目にすることができるので、確かに本人からパッと話を聞いた時に、何だか皆は知らない“社会の闇”に触れたような気持ちにもなりちょっとした高揚感と共に同情している姿をよく目にする。だけど、よくよく聞いてみると、「ん?なんかおかしくない?」と辻褄が合わなかったり、不自然に感じるような点が出てくることもある。そのような場合は、少し距離を置いて反応することが本人のためでもあると言える。

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(相談や医療の場では、言質を取るためにコミュニケーションを取ってくることも多い。「おっしゃる通り○○かもしれないけど、おそらく違うかもしれませんよ」と答えても、「○○かもしれない、と言われた」という切り取り方をするのも決して極端な例ではない。なので、相談を受ける立場からすると言葉の選び方一つとっても慎重さが求められる。これももちろん虚偽の根拠によって、本人の行動をエスカレートさせることになる。これは意図せずお墨付きを与えてしまうことになるのである)

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こういうことが何か問題なの?という疑問が上がることもあるけど、エスカレートさせた先に子どもが物理的に傷つくことがあるということや、何より子ども本人は何とも思っていないのに「この子は○○が悪くて…」と言い周り、更にはその言葉を証明させるかのように子どもの行動を制限させることなど枚挙に暇はないし、子どもにとっては何だかよくわからない環境の中で“すくすく育つ”ということは難しいことになってくる。

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大事なのは、親の話や様子と子どもの話や様子を継続的に確認することができる立場の人間がいるかどうかということ。よくない方向にこじれてしまっている場合には、血縁関係を始めとする個人的な関係ではちょっと難しいのかな…というのが正直な印象。本人の動機に合う承認されるということで始まった関係は、何か腑に落ちないことが出てきた時にそれを指摘すると、急に態度が豹変して関係が途切れてしまうことが多い。その様な事態に陥ったとしても、責任を持って関わりを保つことができる立場というのは、本当に限られた関係性だ。僕には、この関係性は、仕事として成立するとしか思いつかない。

雑感~昔の映画を観ていて思うこと

高校の時の先生が授業中唐突に、

「大学の図書館で吉永小百合に会ったことがあってよ。パッと目の前にいて、目があったんだよね。吉永小百合っていうのは、近眼なんだよ。で、近眼の人っていうのは、こう、瞳がウルウルしててな。そんな瞳と目があったもんだからさ、もう一生を棒に振ってもいいから抱きしめたい、と思ったね」

と話したことがあった。

こんな話をされたもんだから、今でも吉永小百合さんを観る度に、中肉中背にメガネ姿のこの中年男性先生の短パンテニススタイルが脳裏に浮かんでしまう。許し難い。ホントに。

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もう一本観ました。『未成年 続キューポラのある街』

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『キューポラのある街』は観たことがあったので、続編を。ハキハキしっかりものの主人公を吉永小百合さんが演じています。当時の社会問題のいろんな要素が、吉永小百合さんの存在感で繋がっていくような話。ただ、終わり方が何とも不思議。最後の前のカットには、妙な不協和音のBGMの中、雑踏に消えていく主人公。『禁じられた遊び』のエンディングの様で、「???」となりました。一作目である『キューポラのある街』も送ってもらったので、観直してみよう、というのが一番の感想だったりして…。

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ここしばらく観ている映画は、戦後間もなくのもの。「このころの映画は秀逸なものが多い」と、映画を送ってくれたお師さんが言っていたけれど、その通りだと思う。これは、邦画に限ったことではなくて、ぼくが大好きな映画の一つであるイタリア映画のネオリアリズムの流れを汲む『鉄道員』も同じ時期で、作品に漂う空気には上記の邦画と似通ったものがある。(この『鉄道員』も送っていただいたビデオの中にありました)

現代の日本の映画だったり小説だったりにも、いわゆる“社会派”と言われるものはたくさんある。いや、読んでみると、そういう要素を組み込んでいるものがほとんど。けど、昔の映画と何かが違う。

何が違うんだろうなぁと思っていて、ふと思ったのは、最近の作品は社会問題を題材にしているものの、あくまでその問題を眺める立場だな、ということ。同じ社会に生きているはずなんだけど、なぜか当事者ではない。小説なんかでも、相当いろんな事件などを調べたんだろうな…というように、緻密に組み立てられた話はたくさんあるんだけど、やっぱり当事者ではないという視点で文章を読み進めていることに気づく。批評はするけど自分のことではないし関わらない、という風に乾いた感じでもある。これは、ぼくの観たり読んだりしているものに限られていることなのかもしれないけど。。。

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(飛躍してしまうと、思い出すのは去年の安保法案に反対していた若者に対する目。ネット上などでは若い人のデモのやり方などを批評し、国会の討論を批評する人はたくさんいるけど、批評している本人の安保法案そのものについての意見は見当たらない。「どっちもどっち」と言い、本人は「どっちでもない」。「何とも言えない」みたいに。賛成、反対とかではなく、せめてどうしたら良いか一緒に考えるという姿勢は…と思ったりもしたけど、それとも違っていて。批評はするけど関わらない、のである。そうはいっても、紛れもない当事者のはずなんだけど…)

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最近観ている戦後間もなくの映画、例えばこの前のブログでも取り上げた『狼』なんかは、観ている側は自然と社会の歪に追いやられている弱者の視点になって映画を観進めている。当事者の苦悶を感じざるを得ない話になっている。監督である新藤兼人さんの映画には、社会問題をあぶり出し“世間に訴える”という目的が第一にあるからなのかもしれないと思ったりもする。

映画や小説、いや、それだけでなく、音楽や絵画などなどが受け手の感情を大きく揺さぶるポテンシャルを備えているものだとしたら、誰かの感情を自分のこととして体験するということ(例えば、社会問題を自分のこととして捉える、とか)による世界の広がりのきっかけになることを期待してしまうのです。

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あ。もちろんスカッとするだけのアクション映画とかも好きです。ニコラス・ケイジとかテレビに出てきたら、ニヤニヤしながら観てしまいます。

“面白い映画”と“良い映画”の違い、かな。

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こんな行くあてもない文章を書きながら、「ヒロシは本を読まないからな。本は他人の人生を経験することなんだぞ」と、反抗期に父親に言われて反発したことを思い出した。

『黄色いからす』と絵の話

小学生の時、塞ぎ込んでいる子どもの描く絵を中心に進む2時間ドラマを見たことを強烈に覚えていて。いや、ドラマを覚えているというより、ドラマの中でその子どもが描いた絵を覚えていると言うべきか。それは、首のない母親が包丁を持っている絵だったりして、当時のぼくには刺激が強かったのだ。

話は、暗い色ばかり使っている絵が明るい色に変わってきたら良い兆候です…ということをキーにして進んでいく。その子の問題行動がいろいろエスカレートしていく中、ちょくちょく子どもが描いた不気味な絵が不意に映し出され、その度にぼくはビクッとしたり。しまいには家庭内暴力だかで親はボロボロになっていくんだけど、最後は暗い色で塗りつくされた画用紙の中にピンクだかの色が使われているのが発見されて、希望が出てきて良かった良かった…みたいなエンディング。

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話題になったし、観たことがある方も多いかと思うCM。

まぁ、大袈裟な気もするけれど、子どもの本意を窺おうとすることすらせず、大人があくせくする姿は象徴的。

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似たような話で思い出すのは、灰谷健次郎さんの小説『天の瞳』の冒頭のエピソード。主人公の倫太郎の保育園時代、絵が上手く描けなかったから、まぁいいやとグルグルと塗りつぶす。それを先生に指摘されたら、なんか恥ずかしいからという感じでフザケテしまう。先生はそんな倫太郎の心の中の動きなんて露知らず…そんな始まりだったような気がする。

うーん、現実の場面においても、よくありそうな。。。

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送っていただいた映画を観ている。この前は、お師さんのおススメだった『黄色いからす』。

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話の舞台は、また戦後まもなく。母と二人で暮らしていた小学生の清の家に、中国から引き揚げてきた父がやってくる。けど、なんだか上手くいかない。そして、しばらくして妹の誕生。日に日に、清と他の家族のギクシャクが大きくなってくる。清が部屋の隅でこっそり飼っている動物が、彼の孤独感を浮き立たせる。褒められた家庭とは言えないかもしれないけれど、特別な家庭と言うわけでもない。悪意はなく、まぁ“普通”と言っていい親、だと思うんだけど、やっぱりなんだか上手くいかない。

戦後、要領よく社会の変化に乗った人と“浦島太郎扱い”されてしまう人…といった構図も出てくるけれど、そこまでストーリーに影響している背景でもないような。それよりも、互いに不誠実なわけではない親子関係が、どこかボタンを掛け違えてしまうことで裾の尾のズレが予想以上のものになってしまう…という、今日でも通じるテーマが中心だと思う。なんでこう悪い方に悪い方にいっちゃうんだ…と、悪循環の中心にいる清を観ていて不憫で不憫で仕方なく、ホロホロとしてしまいました。

そうそう。話は、担任の先生が清の描く絵を観て心配になるところから始まり、積極的に関わろうとしながら進みます。『黄色いカラス』という題名も清の描いた絵のことです。

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絵によって人を分析するというのは、こんなに昔からあるオーソドックスな方法。まぁ、上述から分かるように、ぼくとしては眉唾だと思っているのだけど。絵によって「ん?」と何かを見直すきっかけにはなるかもしれないけれど、絵で人物を分析するということは頗る狭量だと思ってしまうし、純粋に“絵と向き合う”という視点から言っても雑だと思ってしまう。

そもそも、絵を描くことで何かを表現しようとしても、とてもじゃないけれど思い通りになんて描けないだろう。ましてや心象風景なんて…。絵と人間の関係は、なかなか結びつかない部分の方が大きいと思うし、絵を描いている人の多くは、自己表現の実現としてここをナントカ結びつかせようとしている面もあるのでは、と思う。

なので、絵で人を分析するなんていうのは、結局は“心理ゲーム”みたいな割り切りの域を出ないと思っている。

こんな風に言いつつ、実は絵が訴えかけるものは確かにあると思った経験があって、それはゴッホの『刑務所の中庭』を観た時。絵を正面から観たら、グーッと肩が重くなって、みるみる気持ち悪くなっていったのでした。これは、絵が何かとしっかり結びついているからなのか…それとも、ちょっと違う力なのかな…。

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『黄色いからす』では、隣の家の奥さんがキーマンとして出てきます。清はもちろん、両親もどんどん追い込まれ、家庭という独立した世界で生まれた悪循環に切り込んでいけるのは、やっぱり外からの手なんだなぁと。

放課後教室のひとコマ

年が明けて、放課後教室も始まっています。

小学2年生の子は、算数の問題。ひとコマ50分間で4題にチャレンジ。1題あたり10分強。ちょっと時間がかかっているようにも思えますが、実は小学校高学年に出してもいいような問題。

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2年生なので、そもそも割り算を習っていません。

「割り算だね」と言ってしまうと
「まだ、習ってないからできない!」
と、なってしまうので、“割り算”という言葉には触れずにスーっと進めます。

こちらからは、既に習っている掛け算の構造を確認を。それだけで、あとはあの手この手と自分で考えて、実は割り算の作業そのものを考え出しています。目の前で問題を解いていく過程を見ながら、「うーん、すごいな…」と感心というか感動というか…。

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ワーッと素早く計算問題を解くというようなことよりも、時間をかけてじっくり自分で考える。そのようなことを、最も大事な時間として考えています。

もちろん、計算問題も出して子どもにひんしゅく買うこともありますけどね…。

『山びこ学校』と『狼』

昨年末、お師さんから段ボール二箱分のVHSを譲っていただいた。自宅には、しばらく動かしていなかったもののビデオデッキが残っていたので、お正月に起動。まだまだ使えそうで一安心。

そこで、お正月に今年一本目の映画として、『山びこ学校』。

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山形県の学校における、教師・無着成恭さんのお話。以前から知っていて観てみたいと思っていても、なかなか手にすることが難しかった映画なので、ちょっと興奮気味に早速再生。山形の方言だからか、はたまた古いフィルムだからか、聴きとれないところもあったけれど、新年早々頭がパンクするような濃い内容でした。

いろんな場面で無着さんが子どもに話をしよう(授業になっている)としているところや、教員同士の討論の内容などを見ていると、昨今の論議と対照的に思えてきて、時代が違うとはいえ「何がそんなに違うんだろう??」と不思議な感じがした。多分、“自身の実践に基づき”研究を重ねている、というところなのかな…と思ったり。とにかく一回観ただけじゃ、なかなか整理ができなさそうなので、もう一回観てみようと思う。

映画の舞台は、多くの人が貧しく大変で、誰かの苦労も身近に思える感性を多くの人が持っていた時代。これは、みんなが中流になることに躍起になっている間に失われた感性なのかもしれない。みんなが中流になる時代では、そこから外れる人は自分の責任とされる。他人ならば、尚更どんな理由があるのか検証しようという心の動きなんてなく、「自分が悪いんでしょ」となる。

そのような感性が取って代わってしまった結果だけが、再度やってきた貧困の時代の現在にも残っているような。「あいつが上手くいかないのは、あいつ自身のせいだ。おれもこんなに苦労して何とかやってるんだ。自己責任だ」という捻じれた社会観が蔓延しているようでは、この先も互いに落ちていくだけだろう。

映画の中では、修学旅行に行けない生徒のためにみんなが協力する場面があったけれど、現在でも子ども達自身で判断をさせれば同じ様な行動が見られるんだろうな、と思った。子どもの感性は変わらないのかも、と。けど、同じ行動を実行することが難しいと断言できるのは、ストップさせる大人が次々出てくるのが目に見えているから。
社会の一員として成長するというのは大事なことだけれど、その社会に果たしてどこまで合わせるべきなのかは、大人がしっかりと吟味していかなければ、先述の捻じれた社会観を延々と引き継がせていくことになってしまうのかもしれない…と思ったのでした。

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と、ここまでの下書きをしていたのは、数日前。一昨日、二本目のビデオを観た。

新藤兼人監督の『狼』。

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新藤兼人さんは、昔インタビューを見ていて思わずホロっときたことがあって、10年くらい前に授業で取り上げたこともあった。(当時90歳前後の監督が、「お母さんに会いたい」と言って泣いているインタビューだった。この場面を取り上げて、「お母さんに会って、何をしたいんだと思う?」ということを、みんなで考える授業をした)

だけど、映画を観るのは初めて。そして、とにかく衝撃だった。

映画は、『山びこ学校』と同じく終戦後。ただ、場面は都会で“池袋”なんて地名も出てくる。あらすじは、生活に追われて保険外交員になった男女5人組が現金輸送車を襲うというもの。新聞で事件を知るだけでは湧き起こらない感情を、強盗に至るまでの一人ひとりの生活を丁寧に描くことで、胸を掻き毟るように煽る映画だった。

それにしても、雇う側は就職に来た人がお金に困っていることを見透かすように“酷使”し、利潤のためのコマとしてしか見ない。使えなくなったら、次の人員を“補充”する。働かされる側は解っているけれど、抜け出せない生活背景がある。横の関係では互いの苦労を薄々感じ合うものの、縦の関係になると明らかに立場が異なる。

現在のこの国と全く同じじゃないか…と暗澹たる気持ちになった。上の立場の人は、自分が働く労力を減らし、その上で自分の収入を増やすために、さらに下の人を働かせる。“下の人を使うのが自分の仕事”と言うかもしれないけれど、その人個人の生産性はない。何かおかしいと思っても、絶対的な主従関係から抜け出すことができない。

『山びこ学校』で見られた感性は『狼』の中の上下の関係では皆無で、上述では、“みんなが中流になっていく中で自己責任という観点に取って代わられた”と書いたけれど、ちょっと違うのかもしれない…とも思った。主従関係が存在するところでは、“取って代わる”のではなくて、“元々あったものが出てくる”のかもしれない。現在のこの国で派遣だ非正規だと言われながら存在している主従関係が、こんな時から存在していたのかと思うとクラクラした。

それにしても自己責任の感性が蔓延するのは、上の立場の人間からすればこの上なく都合が良い。高見の見物といったところだろう。いつの時代も。

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『狼』を観た後は、ストーリーの行き先を含めてとにかくショックでぼんやり映画を反芻していたけれど、ふと気付いたのは新藤兼人監督の様な弱者の立場からの視点も存在するということ。“強盗なんて良くない!”という当たり前のところで思考を止めず、弱者を押しつぶしているものに切り込んでいく作品を、多くの人がぼくと同じ様な気持ちで観ていたのかもしれないと思うと、ちょっと胸をなでおろせた。

そうしながら、『山びこ学校』の中で、無着さんが言っていた「何も怠けていて貧しいんじゃない。一生懸命働いているのに貧乏なんだ」という台詞を思い出した。問題は個人に帰結するのか?いや、そうじゃないだろう。そして、“映画の感想”で思考を止めるわけにはいかない…と。

何かがおかしい…と感じる現代において、全く色褪せない映画2本でした。

あけましておめでとうございます

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あけましておめでとうございます。
今年もよろしくおねがいいたします。

キッチンも今日が仕事始め。正月ボケというのか、財布を忘れたりとドタバタしております。早く通常の生活に戻らなければと思っているのですが、身体がついていかないようです。今週いっぱいくらいは少しのんびりと…、と早速自分に甘い年始めです。

沖縄に越してきて、初年は沖展、二年目はキッチンのオープン、三年目は放課後教室と、のんびりとした歩みではありますがコーラルの活動も一歩一歩進めています。今年も早いうちに、より具体的な目標を立てて行きたいと思っています。

また、個人的には、年末から始めたハングルの勉強を進められたらなと。語学が専門のお客さんには、どんな語学も短期間集中で習得するべし、とアドヴァイスを頂いたものの、完全にストップ中。また、アジアからの観光客増加の話題の中で、お客さんからホスピタリティのお話をして頂きながらも、これまたストップしている各国語のお店のメニュー表作りも進めていきたいところです。

ちょっと読み返してみても、相変わらずとっちらかっているなぁをいう感じですが、今年も焦らずやっていこうというところだけははっきりしているところです。皆さんにお会いできることを楽しみにしながら、日々過ごしていこうと思っております。機会がありましたら、ぜひ、お立ち寄りください!