現在37歳。大学を卒業してから15年が経つけれど、今月末でようやく育英会の奨学金の返済が終わる。繰り上げ返済する人もたくさんいるけれど、ぼくみたいに青息吐息で活動している身からすると、そんなのは夢のまた夢で。ちなみに、いろんな事情で第2種という利子(3%?)が付いた奨学金だったので、結局全部でいくら返したのかも分かっていない。(完済通知が送られて来るらしいので、それには載っているのかな??)
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自分自身が奨学金を使って大学に行っていたので、「勉強しようと思えば、ちゃんと進学する手段はあるからね」というのは、子どもと進路の話をしながら言っていたことなのだけど、今となっては認識が甘かったなぁと思う。
世界には、大学の授業料が無料だったり、奨学金も返済する必要のない給付型が設定されていたりする国が結構たくさんある。北欧の国などはこの授業料無料、給付型奨学金と両方実現しているところが多いし、他の主要な国々もこのどちらかを設定して、勉強したい学生に対して大学への門戸を広く開いているところが多い。
両方ともないのは、日本くらい。
いや、それどころではない。「奨学金とはいえ、返済が滞ると取り立て屋が来るらしいよ」なんていう噂話も、実は大袈裟とも言えない話で、3ヶ月返済が滞るといわゆる“ブラックリスト”に載せます、と説明書きまでしてある。ほんと、ただの借金と何も変わらない。さらには、最近の安保法案との絡みでも話題に挙がっていたけど、今後の社会情勢によっては大きく“使われる”可能性も否定できない。。
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そもそも日本の大学の授業料は高い。なのに、国立大学の学費も公平になるように私立大学に合わせて上げましょう、なんてピンボケなことを言っている。ぼくは、育英会の奨学金に加えて、大学2~4年までは大学内の給付型奨学金に採用されたりもしたのだけど、それでも学費全額には届いていなくて親に出してもらっている。
それでもぼくが苦学生という訳でもなく大学に行っていたのは、進学を当然のことの様にしてくれていた親のおかげだけど、これが当たり前ではなく、現実問題としてどうにもならない場合もあるということ、それ以前に「進学なんてありえないよ」と進路の選択肢に入らないことが当然ということが、決して珍しくないことは、身に沁みながら認識することができる。
進学塾で働いていた時、高校受験に備えた志望調査みたいな面談もしていたけど、将来の夢みたいな質問に対して「まぁ、近所の工場で」と答えるので、「何の工場なの?」と聞いてみると、「知らないよ。けど、大学とかは金なくて無理だから、適当にどっかで働くしかないでしょ」と投げやりに言ったりもする。これが、中学2年生の言葉だった。
また、不況不況と言われている時に大学生だったので、家庭の事情で新聞奨学生になった人もいた。夕刊の配達もあったらしく「新聞“奨学生”って言っても、勉強する暇なんてないよ。はぁ、休刊日…」なんて言っていた記憶がある。
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「借りた金なんだから返すのが当たり前」とか、「これだけのお金を払ってもらっているんだから、親に感謝して、たくさん勉強しないとね」というのは、当事者からすると何も言い返せない“正論”なんだけど、勉強したいという意思を持った若者に対して浴びせるべき言葉ではなく、こういうのはむしろ社会の不備を個人の責任へと論理をすり替えるための言葉で、この言葉を社会制度として体現しているこの国は、本来あるべき姿として果たして正しいのかを今一度考えなければならないと思う。
“皆が等しく教育を受ける”ということではない。“皆が等しく教育を選択することができる”ということが、社会を成立させていく重要な一面だと思う。
前者の意識は、均一化に繋がりかねない。戦後、義務教育が広く敷かれ、均一化ゆえに結局はその結果が個人の原因とされてきたことは、以前のブログで書いた気がする。そういう視点ではなくて、個人の話として、教育を受けたいと思った時にその意思を社会が底支えしていくことが、人一人が成長する背中を押していくことになり、結果的には社会の成長にも繋がる(←ここは蛇足か?)ということなのだと思う。
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まぁ、乱暴に言ってしまえば、「勉強したいって言ってるんだから、応援しようよ」ということ。特に若い人に対して。自分のこととして「お金がないから諦めるしかない」ということも、他人のこととして「あいつは金がないから仕方ないよね」ということも、どちらも次の世代に対しての薄情さの現れとなってしまう。
社会として個々の教育を大切にする度合いは、その社会の成熟度そのものだと思うのです。