少年法をめぐる意見について

「ひどいねぇ。この事件は本当にひどい」

神奈川で中学生が亡くなった事件のニュースが流れる度に、お店では辛い空気が流れる。痣だらけの写真も一日中テレビに映し出され、あまりにも痛ましい。

「被害者のプライバシーはないんですね」と言っていたお客さんの言葉も重い。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

神戸での事件がきっかけとしては大きかったと思うけれど、重大な子どもの犯罪が起きるとその度に少年法の改正が言われる。その中でも、今の少年法は戦後GHQの指示の下に作られたものであって、現在の社会にはそぐわないというの意見はよく目にする。

今回の事件も、逮捕されたのは18歳なので、少年法の下に“守られて”いる。

何とも言えない理不尽さ、常軌を逸しているところから、少年法を改正した方がいい、という気持ちになる人がいるのも当然だと思う。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

思い出したのは、昨年秋の北海道の事件。

母・祖母殺害容疑の17歳、同級生ら1万人が嘆願書

逮捕された子は、17歳なので、少年法の下に“守られて”いる。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

情状酌量という考え方ももちろん大事だけれど、情状酌量ばかりで、文言は形骸化してしまう可能性がある“法改正”になってしまうようだと、秩序の基盤には成りえない。

もしも自分に子どもいて…とか、教え子が…と想像する(想像したくもないけれど)と、その時には想像しがたい攻撃的な感情が生まれるような気がする。だから、こういう感情を否定することは決してできない。

ただ、法律や憲法というのは、こういう感情を超越した確固たるものでなければいけないと思う。感情というのは、振り返った時に、いつも正しかったという訳ではないから。

そもそも、少年法を改正すればこの様な犯罪はなくなるのか。それとも、ただ罰を与えることを目的に改正するというのか。後者であれば、犯罪の抑止という目的は二の次ということになる。(既に逮捕者の顔は拡散され、おそらく一生社会的制裁を受け続けるだろう。これは“罰”に当てはまるのか?だとしたら、誰によって、何のために?)

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

「同じ様な思いをする子を出さないでほしい」
子どもが犠牲になる痛ましい事件が起きると、遺族の方で、この様に言われる方も多い。

今回の事件も、何とか防ぐことは出来なかったのか…と思う。転校という子どもにとって大きな出来事の後、学校に来なくなったということは、大いに注意するタイミングだったと思う。友達に痣の写真を撮らせた時は、笑顔の下には最大限のSOSがあったのではと想像してしまい、その命がけの行動が辛い状況を脱出する糸口にならなかった時の絶望感を思うと、胸を握りつぶされそうな気持ちになる。

北海道の事件に関しても、同じ様に防ぐことが出来なかったのか。逮捕された子からのSOSはなかったのか。調べれば調べるほど、この思いは強くなる。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

このご時世、インターネットでは捕まった子の顔写真が(見たくもないのに)拡散されている。今は容疑の段階でもある。
おまけにいろんな憶測が飛んでいる。そこには、最近の傾向に違わず、逮捕者に対して民族的な推測が含まれている。明らかにデマとわかる内容でも伝聞されるにつれ、「詳しい情報、ありがとうございます!」みたく真実のように語られ始めている。

こういう差別意識は、戦前から受け継がれていることは間違いない。関東大震災のデマが生み出したことについては広く知られている(被差別部落の人達もかなり虐殺されていることを知らない人は結構いるようだ)。あの時の殺害の仕方も、ひどくおぞましく猟奇的なもので、それを自警団と名乗る警察でも何でもない“普通の人”が行っていた。

ネット上では、事件を追いかけているつもりでいて、気がつけばこの戦前からの意識が顔を出しはじめている。扇動している姿とそれに群がる姿を見ると、逮捕された少年達の行っていたリンチと、行為としては重なって見えてしまう。

やっぱり、素朴に疑問。それは、何のための行動なの??

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

改めて言うと、少年法を云々言う前に、まずは出来ることがあるのでは、と思う。インパクトが強く、社会に大きくフラストレーションが溜まっていくような事件が起きた時に、ただただ「厳罰だ!」となってしまうことは、フラストレーションの捌け口としか作用しないかもしれない。実際、捌け口を探しているかのような言説も生まれているというのは上述のこと。

お客さんも話していたが、そもそも「凶悪犯罪の低年齢化」って本当に正しいのか。この言葉の持つ影響力を考えれば、「最近の若い人は」という思考を必要としない常套句と同じ様に使われてはいけないと思う。ただただ、感情的になるところをくすぐられ、扇動されることだけはないようにしたい。

一番大事なことは、次の犯罪を起こさないことだと思う。そのためには、犯罪を防げた可能性をより広い範囲の人達が持っていたかもしれないという意識が必要。身の回りで同じ様なSOSは発せられていたら、ちゃんと動けるのか。また、気がつけば猟奇的な空気を作り出してしまう社会を受け継いでいると冷静に振り返ることも大事だと思う。これらのことなく、法律だけ改正したところで、罰は増えども罪はなくならない。

これは、被害者の子に対して唯一今から出来ること。
“同じ様な思いをする子を出さない”ためにも。

震災の話~原発事故から

原発の話は、結局は放射能についてどう考えるのか、ということになる。利権だなんだっていうのは、原発に限った話ではなくて、むしろこの国はこういう浅ましいことで成り立っていると言っていい。だから、その中で、何で原発だけ…、ということの答えは、やっぱり放射能とそれによる健康被害のこと、ということになる。

もうすぐ震災から丸4年。放射能という言葉とどう付き合うかについて、改めてどうこう言う時期ではないと思う。「科学的にはっきりしていない」とか「エビデンスが」とか絡まりだすとキリがないし、新たな根拠をこれから出せるわけでもないので、別に気にしていないよっていう人は読み進めないでほしいです。

何でかというと、原発・放射能の話は人間関係の上では“余計なこと”として作用することが多いから。

なので、ちょっと確認しておこうとか、今後の対応に迷っているところがある…という場合だけ読んでください。全て自分で読んできたことを元にしているけれど、どの本のどこの部分に書いてあるのか…、と言われても覚えていませんので、あしからず…。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

最初はあまり気にしていなかった。当時は喫煙者だったので、
「まぁ、タバコ吸いながら放射能って言ってもねぇ」と。

(今はタバコを吸わなくなった。「良かったね~」と言われるけれど、禁煙したつもりはなく、何故だかだんだん“吸えなくなった”と言う方が正しい)

ただ、広島・長崎へ行き、家にはチェルノブイリの本があったことを思い出すと、喉に小骨がかかるような感じだった。まぁ、震災直後はそれよりも「被災地を支援しなくては!」という思いの方が圧倒的に優先されたし、日々報道される被災地の状況は、それを一層加速させていた。

しばらくすると、計画停電が始まった。否応なく生活に加味しなければならなくなった。
「計画停電、いつ?それまで帰らないと大変だから…」とか、
「今日は違う駅まで自転車で行って出勤するよ」とか。

そう対処しながらも、結局自宅駅の一つ前までしか辿り着かず、仕方なしに入ったつけ麺屋ももちろん停電で、換気扇の回っていない店内の湿気は呼吸すら難儀するスチームサウナのようだったこともある。
「なんなのよ、もう…」と、店員までイライラしていて、味も気持ちもこの上なくマズイつけ麺タイムとなった。

その後、結局1時間かけて歩く。よりによって猛烈な強風の日で、舞い上がる砂ぼこりに、目は開けられない、口の中までじゃりじゃり。ちょうど福島からのプルームが来るか来ないかの日のこと…。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

車でラジオを聞いていた時、隣町で放射能の相談会を行った専門家が言ったことに、ハッと我に帰る。
「でも、被ばくには“しきい値”がないです」

“ただちに”は嘘だと分かっていながらも、日々専門家と称する人がテレビで言っていることが、「大丈夫、大丈夫」になっていく。計画停電と合わせるように、「原発は安全だ!必要だ!」という人が増えてくる。
事故直後は、家に入る時には上着を脱ぐ、靴は玄関の外、水にぬらしたマスクが良い…など、かなり切迫したことをかのNHKですら言っていたのになぁ、と思っていた頃のこと。

そして、昔本屋で写真集を立ち読みして、あまりの惨状に倒れそうになった“劣化ウラン弾”のことを思い出し、その被害をネットで改めて検索する。

衝撃だった。

正直、中々直視できなかった。遺伝子に作用するということは、すなわち生物の設計図を壊されるということなんだと、それはSFとかではなく現実のこととして存在するんだということを突きつけられた。

それからは、次から次に出版されていく被ばく、原発関連の本を片っ端から買って読むように。

「ちょっとだけなら大丈夫」とか、「自然にもたくさんある」とか言われても、「ちょっと、ってどのくらい?」とかいろんな疑問があったけれど、その「ちょっと」についても“低線量被ばく”の害ということで、やっぱり警鐘が鳴らされていた。(ペトカワ効果)

やっぱり放射能は気にした方が良いと改めて確信して、自分の住んでいる場所についても調べるようになり、実家の雨水浸透ますの値を見て愕然とする。いつも大体同じ値しか出さず(0.15~0.2くらい…)、「本当に動いてるのか?これ?」と言っていたガイガーカウンターが、真っ赤になって鳴っている(1.00以上)。これは、本当に降ってきている、と実感した瞬間だった。

フリースクールで親御さんに注意を促しながら、けど、そこで活動しているという自己矛盾。

「せめて、子どもは避難させた方がいい」と自分が言えるのか?いや、思うことすら許されるのか??

そんなで、活動の場所を変えるしかない…という結論が現実的に思えてくるように。一緒に行きましょうと言いたいのは山々だけど、それもまた無責任か。とにかく、みんなが移動しようと思った時の行き先の選択肢の一つになれたらな…と。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

埼玉にいる時(2年前まで)に気をつけていたことは、

洗濯物や布団は外に干さない、
気休めでもマスクはする、
食材の産地に気を配る、
水道水は身体に入れない(家は外国の水のケースで溢れていた)、
キノコ・ベリー系の果物・牛乳・山菜などのチェルノブイリの時に話題になったものは食べない、
当時は魚介類がアレルギーで食べられなかったけど海産物(特に貝系、海底に生息する魚、小骨ごとまるまる食べる小魚など)、

さらに、たまに食事に関しての緊張感を抜く…ということ。

既にたくさん身体に入れちゃったよ、というのは上述の計画停電の時のこともあるし、他にも日々の生活でも完全に防御することは不可能なことになっている。被ばくは基本的には足し算。取り入れない工夫は必要。

(引き算の話もある。汗をかくのもいいとか。原爆の研究をしていたオッペンハイマー達は、作業が終わると放射性物質を体外に排出する点滴(キレーション)を受けていたとか。これは、この当時から内部被ばくについての危険性は認識していたことの裏返しでもある)

最終的には、自分が住んでいる地域の食べ物が気になるようになったら、動こうと思っていた。しばらくすると、近所のお茶畑はどんどんなくなっていった。そして、国や東電の動きを見ながら「あ、ダメかも」と思ったのでした。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

広島・長崎を回ってくると、どうしても印象の中心は“ピカ”の被害が中心になっていて。確かに、原爆が落とされた後に被爆地に入ったのに健康を害した“入市被ばく”のことなども知ってはいたのだけど。

外部被ばくはイメージしやすいけれど、内部被ばくは何とも難しい。実際、チェルノブイリで見られる被害も事故との因果関係を認められるものは限られている。けど、かなりの数の人が今でも“何らかの影響による”健康被害に苦しんでいる。

この“かなりの数”とは、ベラルーシでは赤ちゃんが健康で生まれてくる確率が15~20%というくらいの数。何らかの慢性疾患を持って生まれてくる方が80~85%という事態は、ちょっと想像することすらできない。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

なんで急にこんなことを…というと、地震が続き、さらには汚染水のニュースがまた入ってきているから。急いで一気に書きました。

ストロンチウムという文字をよく目にするようになってきたのも怖いです。(第二次大戦の時、マンハッタン計画の科学者の間では、ドイツに原爆を作らせないために「小麦畑にストロンチウムをまくといい」と言う話もでたそう。実行はされなかったようだけど、そのくらいの毒性)今まではどちらかというと黙殺されてきたのに、どうして今になって?と。

今はいろんなニュースが溢れていて、その中で地震や原発関連のニュースは、正直慣れっこに。けど、事故は進行中で、今さら“過去最高値”なんて叩きだしている。おまけに、原因は「わかりません」で、「だから、言いませんでした」みたいなことは相変わらず。

事故直後のような爆発事象はなさそうだけど、それが逆に警戒感を抱かせない原因にもなっているのか。何かが起きていることには違いないのだけど。。。

(おまけ)。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜

「避難できていいね」と言われたこともあったけれど、正直大変だった。身の回りの中でおそらく一番経済的に厳しかっただろうけど、決めたら進めるしかないと引っ越したけれど、今思えば財産を持っているというのは、これとは正反対に作用するのかなとも。

ただ、この“大変だった”のは、引っ越してくるまでのこと。引っ越してからは、またまたいろいろな人の支えにあって、決めたことを進めていくしかないのを続けています。

ちなみに、ぼくは沖縄で本当に良かったと思うけれど、そうとも言い切れない人に出会うことも。移住してみようかな…と思う人は、実際に候補地で暮らしてみることも必要だと感じています。もし、移住を考えていて、沖縄が候補の人がいらしたら、お話し下さいね。

“新しい教育”って?

何をもって教育というのか、そして、何をもって“学び”というのかは難しい問題だと思う。少し前までは、テストの点を取って、良い高校に入って、良い大学に入って、良い会社に就職して…という、隣と競争しながら自分の価値を確かめるようなことを目的とすることが、その善し悪しは別として、この問題に対しての社会通念だったかもしれない。

今は、学歴や就職を目的とする考えも根強いながらも、そこから次の考えに進む考えに出会うこともたくさんある。

そんな中、良く耳にするのが、
「これも、子どもにとって大事な“学び”ですよね」

ただ、この言葉を耳にする度に、ちょっと違和感を覚える時がある。
それは、「それって、別に改めて言うことじゃないんじゃない?」という時。

子どもの行動自体は、今も昔も変わらないと思う。お店の前を遊びまわる子どもの姿を見ていて懐かしく思うのは、自分も同じ様に遊んでいたから。子どもと過ごしていて、自分の小さい頃の姿を重ねるような場面に出会うのも同様だ。子どものすごい工夫に出会った時に感動するのは、自身の小さい頃の経験から、その工夫の素晴らしさに気づけるアンテナを備えているからだと思う。

つまり、「これも“学び”」という言葉が指す行動は、昔から子どもにとっては息をするように自然に行われていたことで、子どもの時期における行動という面から見ると何も新しいものではない。もっと言えば、大人が放っておいても自ら起こす行動だ。

「学校教育では、こういう時間を潰してしまっている」という意見もあるかもしれない。ただ、子どもは、学校だけで過ごしているわけではない。自分を振り返ってみても、大人の目のない時間での体験で、改めて思い出すことは山のようにある。今で言えば「これも“学び”ですね」と言われるような時間。

なので、「これも“学び”」というのは、単純に同じ行動を見た時の“大人の認識”が新しくなっただけなのだと思う。中には、大人が「これも“学び”」と認めることは、子どもにとっても良い影響だという観点に出会うことがあるけれど、これはいささか傲慢だと思う。何度も言うけれど、大人の存在なんて関係のない時間なのだから。

繰り返すけれど、大人が認めようが認めまいが、子どもはそれを行動として経験する。大人の働きかけの必要のないものは、「新しい“学び”」ではなくて、「新しい“大人の認識”」に過ぎないと思う。

教育や“学び”自体の進歩とは、意味合いが違う。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

じゃぁ、新しい教育や“学び”って何だ?ということになる。

環境を作ることも大事だけれど、それはあくまで環境の話であって、教育や“学び”自体の内容ではない。
“何を”、“どうやって”教えるのかについて考えることが不可欠。

今のこの国においては、教育指導要領から外れることが一つの“新しさ”になるかもしれない。教科・単元などに捉われない授業(平田オリザさんは「科目の融解」と表現していて、妙に合点がいき感動した)だったり、沖縄という地だったら、以前も書いた琉球民族という視点から構築していく教育だったりは、今までの教育とは完全に切り離され独立した『もうひとつの教育』として成立すると思う。

ただ、前者には特に大人の経験が必要になってくる。“勉強”という行為が、学校での授業・宿題・受験対策…みたいにしかイメージできない人にはよく出会う。基本的に“勉強=我慢してすること”という前提で話をされて、どうにも話がかみ合わない。
反面、ぼくが一緒に活動してきた人達は、例えば“授業”という言葉を聞いた時に「学校の教室での一場面」を思い浮かべる人はいない。これは、子どもも含めて同じで、暇になった時に「なんか授業して」と言っていた教え子の存在自体が一つの象徴だと思うし、本来“教育”や“学び”が持つ意義の表出でもあると思う。

これは、自分がこういう“学びの場”で勉強してくることが出来たからで、そうでなければイメージすら難しかったかもしれない。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

今日、フェイスブックで見かけた投稿に、

学校の公民で、

四大公害は教えるけれど、福島の原発事故については時間を取らない、

世界の紛争の名前を教えるけれど、日本との関係やISISの人質問題については語らない、

とあった。

少し前には“NIE”で、新聞を使って授業をするのが流行ったけれど、今はどうなのだろう。ただ、今は、この教科書と同じ様な新聞しかないかもしれない、とも思った。

時事を取り上げる際、教師は政治的に中立であるべきという意見もある。教師の意見が出るから、授業しないべきとも(震災後には、放射能がこの対象で、やっぱり政治の問題なんだな、と思った)。ただ、何も言わないということは、政府の立場そのものということになる。多角的に考える機会を設けることは、教育の目的そのものだと思うけど。

人質事件の被害者の写真を使って授業をした教員が非難を浴びた。個人的に言えば、原爆や沖縄戦、ベトナム戦争、シリアやガザの空爆などの写真は授業で使う。けど、津波の被害者の写真は授業では使わない。同じ理由で、今回の人質事件の被害写真も使わない。もちろん、この線引きの基準は自分の中で明確にある。

(最近は、“トラウマ”という言葉が独り歩きしている。その視点を通せば、広島の原爆資料館の展示、ひめゆりの塔の展示も撤去するべきだし、はだしのゲンも、あるいは火垂るの墓までも見せてはいけなくなると思う)

忘れていけないことが一つ。一番無責任なのは、子どもに考える機会すら与えない“教育者”だということ。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

冒頭の問題に照らすなら、放っておいても育つ子どもの知恵を、ある時は支え、ある時は引き出して、一人ひとりの生き方の支えとして昇華させていくのが教育の役割ではないだろうか、と思っている。もちろん、これは人生と“学”を擦り合わせていくこと、さらにはそれを生き方に組み込んでいくことと同じ。そのためには、今までの教育(国民を育てるために存在する公教育)ではないアプローチの仕方を模索していくこと必要で、これからの時代、自分らしく生きるために最も必要なことに繋がっていくのだと思う。

最後に、以前も引用した林竹二さんの言葉を改めて取り上げたい。これは、林竹二さんの授業ドキュメントの一節で、高校生のクラスに向かっての言葉。この授業は、「蛙の子は蛙」という諺から「人間の子は人間と言えるのか」という命題に続き、人間という存在について掘り下げていくものだった。ぼくもこの授業、受けたかったなぁ。

人は、あるときには、世間の人がすべて、これが美しいとか、これが正しいとか、いう場合でも、それをただちに美しいとか、正しいとか、認めることができない場合もやっぱりある。そのときには、やはり、自分の責任において、自分の信ずる正しいこと、美しいことのために、自分の存在を賭けることが必要になる。そういうときには、世間の通念をきびしい吟味にかける力としての学問がものをいうわけです。(林竹二 著 『教育の再生をもとめて 湊川でおこったこと』筑摩書房)

雑感~立花さんと灰谷さん

この前の夜、ぼんやりテレビを見ていたら、立花隆さんが出ていた。核廃絶に関するドキュメントだったけれど、久しぶりに内容の濃いものになっていたと思う。

再放送があったら録画しておこうと思ったら、どうやら見ていたのが再放送だったようだ。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

一時期、灰谷健次郎さんの本を授業の題材にしていた。

「小さい子が悪いことをした後、怒られた後の方がスッキリした顔になるのはどうしてだろう?」

というような話を切り口にして授業。そして、『チューインガム一つ』を読むと、シーンとなったような。“心に事件を起こす”教材だった。

次々に発言が出るような授業もいいけれど、「う~ん…」と、考えに考え、思考を深めていく時間も、とても大切なこと。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

立花隆さんが、カナダの核廃絶運動をしていた旧知の人と再会していた。

冷戦時代、ソ連のミサイルに備え、アメリカの核ミサイル基地をカナダ国内に設置しようという動きがあったけど、それを阻止したのは市民運動だったようだ。

そのカナダの方は、「民主主義だからね」という様なことを言っていた。

今のこの国はどうだろう…と思う。

それにしても、アメリカにソ連の核ミサイルが届かないように、カナダの上空で核を使って迎撃しようというアメリカの政策には目が点になった。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

灰谷健次郎さんの本には、『チューインガム一つ』を書いた女の子へ宛てた手紙が載っていた。

…先生はたとえどんな小さなことでも、わるいことをすれば、えいきゅうにそのつみはきえないのだと思います。それを一生もって生きていくのが、人間の生きていくすべてだと思います。…
~『わたしの出会った子どもたち』 角川文庫~

この授業をした時に、
「人を殺したら、どんなに謝ったり、刑務所に行ったりしても、生き返らないもんね」と、言っている子がいた。

悪いことをして、“怒られた”とか、大人なら“お金を払った”とかいうことが罪に対する代償で、それで全てチャラになったかのように思われがちだけど、そんなことはない。たとえ、相手が「もういいよ」と言ったとしても、事実は現実のこととして残っている。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

番組の最後は、立花隆さんが大学生を相手に講義をしていた。

スクリーンには、原爆で焼け焦げた“黒い遺体”の写真と、戦後中国で生皮を剥がれて捨てられていた日本人の“赤い遺体”の絵。日本は“黒い遺体”を見ることで、被害者の立場になれた。けど、“赤い遺体”にされるほど恨まれることもしていた、つまり加害者の立場でもあった…ということを学生に訴えていた。

“赤い遺体”も被害者の立場として取り上げる論調が目立つ昨今において、かなり踏み込んだ内容だった。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

最近、戦中に起こった“小笠原事件”というのを調べていた。吐き気を催すようなもので、クラクラしてきた。
大岡昇平の『野火』で“右手を左手が止めた”物語は知っていたけれど、この事件は最近まで知らなかった。

その反面、海外の人は知っているようで。かの“パパブッシュ”は当時近くで撃墜されていて、何とか難を逃れていたものの、この事件はその後長らく彼の“日本観”に大きな影響を与えていたそうだ。

彼に良い印象を抱いたことはなかったのだけど、これは当然だと思う。

また。
前にも書いたけれど、戦中、沖縄の人は中国にも駆り出されていて、「ウチナンチュはあんなひどいことはできない」というヤマトの行動を見ていた。
民族の上でウチナンチュは第三者的立場にあったからこそ、目の前で起きたことを戦後も語り継がれやすかったのかもしれない。

お酒が入ると、近所のおじぃは自分が親から聞いていた話をよく教えてくれる。現地の女性を強姦し、自分が射精する時に、女性の喉をナイフで刺す。
「“そうすると閉まって良い”って、やってたんだよ。そんなことしてたんだよ。いや、ウチナンチュには考えられないよ」

これは、“赤い遺体”の話を聞いて思い出したこと。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

ヒロシマを訪れた若い外国人の中には、案内をしている日本人に“謝ってくる”人もいるらしい。何とも言えない気持ちになるという言葉がそのまま想像できる。実際の世代ではない人から、実際の世代ではない自分がその様に言われたら戸惑うのは違いない。(国家の代表としての大統領の謝罪は全くの別問題だけど)

ただ、もしも逆にアメリカの若者に「そんな昔のこと、関係ないね」という態度を取られたら、実際の世代ではないけれど“んっ?”と眉をひそめるだろう。その皺は、この国の人間だからこその深さになるような気がする。

さて。
ぼく自身、“謝ってくる”場面に出会ったら何て言うだろう…。ただ、「こういう酷いことは二度と起こらないように手を取り合いましょうね」と、言われた方が視界は晴れていく気持ちになるのかな、とは思う。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

立花隆さんが、講義を受けている学生の姿にこの国の希望を見い出していたけれど、ぼくも辺野古で座り込みをしている学生に出会った時に同じ様に感じた。時代はとぎれとぎれではなくて、連続性の下にある。自分の上の世代、自分の世代、自分より若い世代と繋げていくためには、多くのことを学ばなくてはならない。
そして、未来を創っていくのは、自分より若い世代であることは間違いない。最近の激動の中、改めて思うこと。

それにしても自分にとって“世代としてできること”が移り変わっているなぁと、若さ漲る世代をちょっとノスタルジック混じりに見つめながら感じています。

“障害”について

転職した職場は、10数名のうち、男性がぼくともう一人だけだった。その人は、視覚障害があって、一緒に研修に行ったりしたときなんかには「全盲です」と受け答えをしていた。5年以上一緒に働いていて、上司にあたる人だったのだけど、音楽の趣味が近かったことやラーメン好きという共通点もあり、いろいろと遊んでもらった。

ある時、一緒に連れて行ってもらった飲み屋さんは、歌舞伎町の奥まったところの雑居ビルの地下にあり、ドアを開けると爆音でヘビメタが流れていて、カウンターの向こうにいるマサ伊藤とキャプテン和田を足して2で割ったようなお兄さんに、「お客さん、どういう音(おと)が好きですか?」と訊かれるヘビーなところだった。

そんなファンキーな一面を持っている人だったけど、スキーをしたりギターを習っていたり「沖縄でダイビングしたことありますよ」と、とにかくアクティブで、ぼくも見習わないと…と思いつつもとてもとても追いつけないほどだった。

一緒に酒を飲むといつも良い感じに酔っ払うのだけど、飲み屋さんを出るとタクシーをつかまえて「じゃぁ、お疲れさまー」と帰っていく。こんな風に、こちらが心配になるかもしれないことは、自分で事前に対処しているような人だった。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

昔、テレビで聴覚障害の子の小学校低学年クラスのドキュメントがやっていた。

そのうちの一人の子は、手術をして補聴器を付ければ、耳が聞こえるようになるという様な内容だったと思う。その手術は終えたのだけど、どうしても補聴器を付けたがらない。

医者は、脳の発達の関係で、早いうちに音が聞こえることに慣れさせないと、音を処理できないままになってしまうという様なことを保護者に伝える。
その子としては、今まで聞こえなかった音が急に聞こえるようになり、それこそ脳としては極度の緊張状態になってしまっていたのだと思う。補聴器を付けることを極端に嫌がるようになっていく。テレビを見ながら、音に敏感な自閉傾向の子の訴えと似ているな…と思った記憶がある。

親や医者としては、耳が聞こえるようになる最後のチャンスということで、とにかく“トレーニング”として音を聞くということをさせたいのだけど、そうすればするほど子どもは反発する。ギクシャクが続く中、親は補聴器を付けさせるために、手話を禁止してしまう。その子はクラスの友達とのコミュニケーション手段がなくなってしまい、みるみる塞ぎ込んでいってしまう。

いろいろなやり取りがあって、最後には一度補聴器はやめて、クラスのみんなと手話を使って楽しく過ごしているシーンで終わった。その前には、医者の「う~ん…」って表情があったけど。

見終わって、何とも言えない気持ちになった。今でもこうやって頭に浮かんでくるということは、自分の中で未だに消化できずに残っているということなのだろう。

耳が聞こえないままになってしまうということに対する、大人の側の気持ちと焦りが伝わってくる。
今を生きている子どもの訴えも伝わってくる。

難しい…。

ただ、最後のシーンを見て、ちょっとホッとして、何だかホロっときたのが、自分の考えなのかなと思う。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

発達障害の話をしていると、「けど、昔はこういう子、クラスにいたよね」となることはよくある。“ちょっと個性的な子”ぐらいの感じで、そんなに目くじら立てるようなこともなかったよね…と。概念の広がりによって、社会認識が後を追いかけるように、色眼鏡を濃くしていっているようだ。そして、一度濃くなった色眼鏡を元に戻すのは、結構難しい。

少し前にニュースになった事件のように、心ない話というのは珍しいものではなくて、その度合いに差はあれども、本来必要のない嫌な思いをしている現実は確かにある。余計なことをする人自体が、“障害”として存在している。結局のところ、“障害”という言葉を実際に“障害”したらしめているのは、社会の認識なのだと思う。そして、小さい時から、この社会の“障害”に対処するために時間とエネルギーを費やさざるを得ない現実があるのだとすると、何とも苦い気持ちになる。

社会保障の話は別として、世間の認識としての“障害”というのは、実はそこまで必要のないものであって、例えば背が高い人が高い場所にある荷物を取るように、力のある人が荷物を運ぶのを手伝うように、何も特別なことではないちょっとしたことで、すんなり進むものではないかな、と思う。そして、これは一方通行ではない。互いに手を出し合っているもの。つまり、多くと同じの、単純な人間関係ということ。
そういう社会が存在しているのであれば、いろいろなエネルギーをもっと個人の成長に集中させていくことができるのかもしれない。そんな風に思う。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

沖縄では、酔って路上で寝てしまう人の話題がよく上がる(まぁ自分も他人のことは言えない)。そんなとき、先述の友人が、

「いやぁ、夏はアスファルトがひんやりして気持ちいいんだよね」

と言っていたことを思い出して、人知れずクスッとしています。

学校にエアコン

通っていた高校は男子校だった。50人のむさ苦しい男子が、エアコンのない教室に押し込められいる夏の日を想像してみてほしい。教室の後ろには、誰のものか分からない体育着が堆肥の様に山積みになっている。体育の授業の後は、酸っぱさで目がしぱしぱしてきそうだ。その上、前の席に座っている子が屁でもここうものなら、怒髪天を衝く男になれる。

ぼくの後ろの席にいた子は、汗だくの上にロン毛で、ついには上半身裸になっていて、
「これ以上暑くなったら、お前は何を脱ぐんだ!」とおじいちゃん先生の寿命を縮めさせるくらい激昂させていた。

ちなみに、教室の窓側にはオイルヒーターがあって、冬場は全力で稼働しているのだけど、廊下側にはその熱は届かず、窓側の子は暑過ぎて眠くなるし、廊下側は寒過ぎて眠ってはいけないほどだった。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

小学校は、入間基地の近くにあった。当時は、周囲に豚舎と、日本で一番汚いと言われていた川があり、日によっては何とも芳しい夏風の薫りを運んできた。そんな日に窓を開けてしまうと、アウトドア気分の給食に。

毎年11月3日には航空祭というのが行われ、それに向けて自衛隊のブルーインパルスが演習飛行の練習を始める。教室の窓は2重窓になっていたけど、どうしても音は聞こえてくるので、
「飛んでるー」となってしまうのは仕方のないこと。

当時は、教室にはやっぱり暖房しかなかったような気がするけど、家にも扇風機しかなかった。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

久しぶりに故郷のニュースだなぁと思ったら、何とも残念なものだった。

エアコン設置は先送り 所沢市長「任期中に判断」

何でも、市長は「震災があったから便利な生活を見直す」みたいなことを言っているようだけど、それならまずは庁舎などの大人からできることをして下さいまし。

そもそも、子育てしていない人もたくさんいる中、選挙の投票率より上回る住民投票とも思えず、この投票にかかった費用で何かできたんじゃないか?と、思ったりもする。

ぼくが学生だったころは、30度を超えれば「すごい!今日は暑い!」という感じだったけど、最近は当たり前になってしまった。それ合わせるように、家庭にエアコンが設置されている確率も、昔とは比べ物にならないものだと思う。携帯電話よりも生活に密着しているようになったと言ってもいい。

その上で、こういうニュースを見ると「子どもは鍛錬させて育てる」という残念な発想から未だに脱却できていない印象を受けてしまい、やっぱりそういうのからは距離を置きたいなぁと思うのです。

カウンセリングについて

ぼくが小さい頃に目にしていた心理学という言葉の持つイメージは、どちらかというと“性格診断ゲーム”みたいなもので、しまいには「あなたの前世は金貸しです」みたいに訳の分からないものまで含まれていたように思える。

最近は、“○○カウンセリング”とか、“○○セラピー”とかいう言葉をあちこちで目にするようになって、それが心理学のイメージに結びついて、何となくアカデミックに聞こえてしまうのは、カタカナ語の持つ力なのか。よくよく話を聞いてみると、「それ、普通のことじゃない?」と目が点になることも珍しくない。

ただ、キャッチコピーが優れているところに人が集まるのは常で、入り口の段階で中身は吟味しきれない。特に、“カウンセリング”のように、効果がイマイチはっきりせず、もっと言えば気の持ち様で何とでも言えそうな内容に関しては、吟味しようにも何を根拠にしていいのかわからない。とにかく、「行ってきた」という事実をどう扱うかに全てがかかってくる。

まぁ、ぼくはこういうのにものすごく懐疑的なのだけれど、最も心配になるのは、他人の性格や成育歴に踏み込んだ内容を扱っているもの。

人は誰しもいろんな思いをしながら年を重ねてきていて、もちろんその中には思い出したくないような破片も一つや二つある。自分のコンプレックスなどに関しても同じ。それを、カウンセリングを“齧った”くらいの人が、引っ張り出してしまうことが多々あってとても怖くなる。

これは、心の中にしまっておいた、もしくは見ないようにしてきたパズルを机上にバラバラと置かれるようなもの。このパズルを取りだす行為というのは、実は本人が“やろうと思えばできる”ことで、逆に言えば“敢えてやらないでいた”ことという見方もできる。そんなことだから、他人が取りだすことも容易で、“これはやめておこう”と多くの人が、そっと見守ってきたことでもある。

それを、テレビで出てくる“ご意見番”の粗暴で軽率で無責任なメッタ切りのように、ホイホイやってしまう人が“○○カウンセラー”や“○○相談員”みたいに名乗っていることがある。

さっきも書いたようにパズルを取りだすことは誰でもできる。最も大事なことは、目の前でバラバラになっているパズルを組み立てていくこと。これは時間がかかることであって、パズルを取りだした人間にはしっかりと腰を据えてこの作業が終わるまで付き合う責任が伴う。それでも、ぴったり綺麗な絵が出来上がることはなかなかなくて、どこかピースが足りなかったり、隙間が空いていたりするもの。そのことについての責任も少なからず負うことになる。

複数人でもそのくらいに大きなエネルギーを必要とする作業なので、取り出すだけ取り出して「ほら、自分でしまいなさい」みたいな行為は、逆効果でしかない。効果があるとしたら、「取りだしたどー!」と本人が気持ち良くなることだけで、その人の自己実現のために他人のパズルをグチャグチャにつかみ取りしているだけなのである。厄介なのは、取りだした人は「人が言わないことを言ってあげた=良いことをした」と錯覚していることで、取りだされた方は、遅かれ早かれそのダメージに悩まされることになる。さっきまでは見えなかったけど、今は目の前に出されてしまっているパズルを無視することはもうできないから。

臨床をしっかりと勉強している人は、こういう危険性を知っているので、自分が責任を負えないことには非常に慎重な判断をする。さっきは懐疑的と書いたけれど、相談に来た人を不必要に引っ掻き回すようにして傷つけるようなことはないだろうなと安心できる。しっかりと、継続して相談をしようという見通しを立て、それを実行可能にするようにまずは信頼関係(ラポール)を築き、大事に維持していこうとする。教科書に書いてあるようなことだけど、臨床の人は一番大事なことを知識としても叩きこまれてきている。

じゃぁ、臨床の勉強をしないと相談とか乗れないのかというと、そういうことではなくて、一番大事なことを知識としてではなく、すでに身体化されている人もいる。心理の大御所の人は、「カウンセラーになりたいという人はダメ。“天然カウンセラー”が一番良い」という様なことを言っている。ぼくがお世話になってきた人は、“天然+勉強”の人達で、ぼく自身、何気ない場面での一言で救われていました。

あるところで、弁護士の人が「子どもの心を解るために、臨床心理士になろうと思うけど、どうやったらなれるのか」と言いだして、そこにいた皆が「いやいやいや…」となったことがあった。なんともトホホな勘違いだけど、多くの人は、“人の役に立ちたい”という善意からカウンセリングという“ツール”に近づくのだと思う。その善意にいろんな欲を付随させなければ、極々自然な人間関係の上でパズルに取り組んでいけるのだと思う。“○○カウンセリング”なんて仰々しく言わなくても、「あ、あの人に会って話をしたいな」という思いを絡ませていくことで、知らないうちにそれなりに組み上がっているパズルもありそうだな、とも思うのです。

日記~2月14日

沖縄に来てから、いろんな出会いがあった。その中で強烈だったのは、お店にふらっと寄ってくれた人が、

「海外に行ってて分かったことが一つある。おれは、日本人じゃなくて、琉球人だっていうことだよ」

と、いきなり言ったことだった。ここまでストレートに耳にしたのは、この時しかない。
その後、アイデンティティの話などをしてくれたあと、実はすぐ近くに住んでいるから遊びにおいで、鍵は開いてるからいつでもおいで、と言って帰っていった。

声をかけてもらって嬉しかったものの、ふらりと遊びに行くようなこともできないでいた。

そして昨日、亡くなったと教えてもらった。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

先週、お店が終わってから、大根の煮物とおにぎりを持って辺野古へ。沖縄と言えども、この時期の夜は冷え込む。そんな中、ブルーシートで囲われた中で身を寄せ合って座り込みをしていた。急に行ったのにも関わらず、快く受け入れてもらった。

ちなみに、その日は年配のお客さんがお店にいて、カラオケに行こうと誘われていた。いろいろと気遣ってもらっているお客さんだったので、適当に断るということは気が引けて、

「実は、これから辺野古に差し入れを持っていくんです」と言ったら、
「辺野古!」とビックリされていた。

「止めはせんよ。止めない。良いことだ。けどね…」と、いろいろと心配してもらってしまい、何だか申し訳なくなってしまった。けど、ちゃんと話して良かった、とは思った。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

お店で辺野古の話題はよく上がるけれど、はっきり賛成と聞いたのはこの前。少し若い方だったけれど、

「アメリカがいなくなったら、沖縄は大変だよ。戦争の時に米軍が来なかったら、沖縄は全滅だったんだよ」

今まで耳にしたことのなかった意見だったので、ちょっとビックリした。賛成は賛成でも、予想していたものとは全く違っていた。一番沖縄を蝕んでいたのは、ヤマトってこと。

これは、他のウチナンチュの意見を聞いてみたいけど、お店のお客さんにぶつけるにはハードな内容。別の場にしようと思う。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

県内では、政府に対してより、アメリカに対して訴えた方が効果的だという論調が大きくなってきているように思える。

ぼくは金曜の官邸前脱原発デモに行くようになって、その盛り上がりを文字通り肌で感じていたけれど、時の総理が「大きな音だね」と言ったのを聞いて、あぁ、こりゃダメなんだな…と思ってしまった。そして、違う行動をしようと思って、今ここにいる。

デモや署名だったり、最近のパブリックコメントだったりもそうだけど、市民が声を上げることが影響力を持つには、その社会自体の成熟度が必要になってくる。こういう市民の声を受け止められない社会では、弾圧という対応がまかり通るかもしれないけど、この国ではそもそも声じゃなくて“音”としか認識されなかった。

こういうのを目の当たりにした身としては、確かにアメリカに訴えることは得策のように思えてしまう。寂しいけれど。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

少しずつ世代は変わっていく。この前のお客さんも、「ぼくなんかは、上司はみんな戦争経験者の時代だからね」と言っていた。「今じゃそんなことないでしょ」という風に。

こうやって記憶が薄れれば薄れるほど、警戒感も薄れていってしまう。そんな空気の中で、横暴と言えるほど強行な作業を当たり前のように行われていってしまうことは、いつか来た道を辿ってしまっているように思えてしまう。

少なくとも、選挙結果はもちろん、知事の存在すら完全無視ということが、許される社会になっている現実。そもそも、選挙結果が関係ないということは、選挙のない国に住んでいることに等しいと思う。
(今、世界中で選挙のない国ってどれくらいあるのだろう…)

反対の人はたくさんいるというのは、もちろんわかるのだけど、それを吸い上げる成熟度が今のこの社会にはないという現実に立ち返り、その絶望感の中から先を見通す努力をしなければ、効果的な次の手段は見えてこないような気もする。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

沖縄のアイデンティティを強く話していた方が、現状に対してどういう言葉を投げるのかもっと聞いてみたかった。

けど、結局遊びに行けないままになってしまいました。

ご冥福をお祈りします。

目の前のレールを行く

幼稚園以前の記憶というのは数少ないのだけど、高田馬場のおじさんの家に行く景色というのは、“絵”としてよく覚えていて。その近所でお祭りがあって、踏切を渡りながら“鉄人28号”のハッカパイプを吸っていたのとか、その味と一緒にふと思い出す。

他に覚えているのも、西武新宿駅のペペの地下で外国のお菓子を買ってもらったこととか、鷺宮の駅のホームのフェンスの前で電車を待っていたのとか。あの時買ってもらった飴が欲しくて大人になってから探したことがあるけど、思い出すのは味と下の中の形の感触だけ。結局、分からなかった。

全て西武新宿線の駅の記憶。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

小学生の頃、隣町に自由教育の学校が出来るというので、賑やかな時期があった。ぼく自身、主要な行事は何度か見学に行ったことがあるし、公開授業のイベントに出席したこともある。

それはそれは勢いのある学校だったので、行事でのエネルギーというのは今考えても突出したものがあったと思う。中でも、裾を地面に擦っているようなコートを着ながら“22歳の別れ”とか歌っているのとか、合唱曲の迫力とかは「あ、いいなぁ」と感じて、当時のぼくにはちょっと憧れるような瞬間もたくさんあった。

けど、ぼくは小学生の頃に見学に行っただけで、友達と同じ地域の中学校に行った。普通の中学校で、普通の行事を楽しんでこなしていたけれど、小学校の頃に見た合唱のことは覚えていて、3年生の時には先生に紹介して“ケサラ”という曲をクラスの選択曲にしてもらった。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

漠然と“先生”という職業に就きたいと思っていたので、教育学部のある大学の付属高校に行くことにした。その高校は、鷺宮の手前の駅にあって、「あ、西武新宿線」と思ったもの。狭い中での選択を繰り返していたのか、それともただの偶然なのか…。

教育学部は、入学時点で細かく専修内容を選ばなくてはいけなくて。ちょうどその頃に、「マックのテーブルは心理学に基づいて作られている」とかいう話を聞いたりていて、教育学部教育学科教育心理学専修という履歴書の記入にひと苦労する学科を選択することにした。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

高校を卒業してアルバイトを始めると、音楽とかをたくさん教えてくれる年上の人がいて、その人は先述の自由教育の学校の一期生だった。

思わぬところで一期生に出会ったなぁと思ったものの、まぁ隣町の学校だし…とそんなこともあるかな、と。少し年上の人だけど、とても可愛がってもらって、それはそれはあんなこととかこんなこととか一緒になって遊んでくれた。

大学は高田馬場にあったので、またまた西武新宿線。見慣れた車窓からの風景。動く定点観測なので、季節の変化を感じる一つの瞬間でも。

特に桜の季節には、咲き始めから満開を経て淡い緑色になるまで、車窓から外を眺めるポイントが二か所あって。暖かい車中から、ぼんやり外を眺めながら通学していた。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

大学4年の年は、次から次にいろんなことがあって、「これが厄年なのか…」と勝手に思っていたけど、前厄にもなっていなくて愕然とした。そして、卒業間近になって就職も決まっていなかったぼくに、先述のバイトの人から声がかかる。

「中学高校と担任だった先生がフリースクールというのをやっている。そこでボランティアをしていたのだけど、仕事が決まって辞めることになった。後釜を探しているんだけど、やらない?」

教員を目指しているということで声をかけてもらったのだけど、正直いろんな面で行き詰っていた自分は、何の気なしに二つ返事を返してしまった。

そのフリースクールへは西武新宿から通うことになり、代表の“担任だった先生”というのは、冒頭に出てきた小学生の時に受けた公開授業の先生だった。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

ボランティアを始めたものの、仕事をしないわけにもいかないので、並行して地元の高校進学塾で時間講師になることに。母校の生徒もいたので、「あ、“ケサラ”って曲、知ってる?」と聞いてみると、今でも合唱で歌っているようだった。ちょっと嬉しかった。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

そのまま、そのフリースクールに勤めるようになった。のんびりしている時間なんてなく、それはそれはめまぐるしく毎日が過ぎていき、いつもの車窓から季節の流れを確認するような生活。

「あ、桜が咲きそうだな」

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

3年して、熊谷へ移動することに。初めて西武新宿線から外れた毎日。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

そして、また3年。退職することになり、再就職。新しい職場は、またまた高田馬場にあり、見慣れた景色の通勤風景。

新しい職場には、自分の母親の様な年齢の人達。ぼくは気が抜けてしまっていた頃で、何から何までお世話になってしまう。その中には、「教育心理の一期生ですよ」という方がいて仰天。大学としてはマンモス校なので、いろんなところで卒業生に出会うことはあるけれど、教育心理は50人くらいのマイナーな学科だったから…。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

今まで、西武新宿線の線路をフラフラしながら、自分は通っていない隣町の学校との縁を感じながら過ごしてきた。そして、初めてそのレールを飛び出して、沖縄に。縁もゆかりもない地で、一から全てを始めないと…。

と、思っていたものの、お店の最初のお客さんは、大学の先輩であり、さらにはまたまた隣町の学校に関係のある方だった。
「え?本当ですか??」と、思わず言葉が漏れてしまうほどの衝撃…。

そして、たまたま道の駅で見かけ、先日閉店後に差し入れを届けた辺野古で座り込みをしている学生さんたちは、この前“ケサラ”を歌っていたそうだ。これを耳にして何とも不思議な気持ちになって、このブログを書いている。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

関東を離れる時には、職場の隣の席の方から、
「そういや、“島”って字も、“洋”って字も海の字だしね。それに、フリースクールは“コーラル”だったんでしょ?沖縄に行く運命だったのかもね」と言われた。言われてみて、初めてちょっとドキッとしたり。

いろんなことが繋がって見えるのは、いろいろな事柄の中のある一つのことだけに注目している結果なのかもしれない。そんな人、世の中たくさんいるかもしれない。実は、全然特別なことじゃなくて、日に日にいろいろな人に出会えるようになっている結果なのかも、と思ったりもするけど。。。

「霊感、あるよね?」と、言われることがある。自覚はないし、あまりそういう方面に関しては気持ちが向かないのだけど、確かに何かに引っ張られている気もする。その“何か”を掘り下げて考えるつもりはないけど、きっと有り難い存在なのだろうと感じながら、飛び出したつもりでいて実は西武新宿線から続いているように見えなくもない目の前のレールの上を歩いていこうと思うのです。

今は、自宅前の桜が満開です。

良い脱力感

最初に勤めていたフリースクールでは、スペースに来たら一日のスケジュール表を書くのが唯一の決まりになっていた。このスケジュール表は、いうなれば“自分の時間割”のようなもの。そして、帰りには一日の感想を書いて帰る…という流れ。

ただ、決まりと言っても、すんなりといかないもの。一人ひとり習慣にしていくにはちょっと時間がかかるし、場所としてスケジュール表を書く雰囲気が完成されていないと、ただただ“面倒なこと”に過ぎなくなってしまう。

「今日のスケジュール、書いた?」
「おー、明日書くよ」
「それ、なんか会話としておかしくない?今日のスケジュールを明日??」
「だーまーれー、きーさーまー」

なんてやり取りはしょっちゅうだった。

ただ、こういう子は、月に一度の保護者会の前日には大変なことに。
「うちの親、明日来るんだった!」と、一か月分のスケジュール表を急いで書き始める子。

「あれ、この日は何をしたんだっけ…。ぐおぉ、思い出せん!」
毎月毎月、夏休み最終日状態。

「昨日、一生懸命書いてましたよ、って言っておくか」
「いや、それだけは本当にやめてください…」
「こんな時だけ敬語使うなよ…。気持ち悪い…」
「じゃぁ、やめんかー。いや、ほんとやめて…」
「…」

まぁ、ざーっと見ていけば一目瞭然で、「あら、また急いで書いたのね」なんていう親御さんの言葉と共に、二人して「もう、しょうがないなぁ。ヤレヤレ」って感じに苦笑い。

。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。゜。

いろんな相談を受けている中で大事だなぁと思う一つは、何か気になることがあったとしても、この「もう、しょうがないなぁ。ヤレヤレ」で対応できる肩の力の抜け加減。強くも弱くもなく、押しつけも突き放しもない。諦めているわけではなくて、見守っている。

そして、そういう感覚を家庭と外(この場合はフリースクール)とが共有できることが最も大事。さらには、チームで対応している場所の場合は、大人同士でこの様な感覚を共有できていると、ありとあらゆる連携が滑らかに。

何よりも、この肩の力が抜けた関係でいると、いくつになっても一人ひとりが可愛く見えるのが不思議。

卒業していった後でも、
「そういえば、あいつ、高校に行ったら敬語を使わなきゃいけないでしょ。そしたら、熱出して寝込んじゃったんだって」
なんて話を耳にすると共に、懐かしい感覚に包まれるのです。