※少し前に書いた、震災の話の記事の続編です。最近は、意識から遠くなることも多くなった震災のことを思い出し、書き記しておこうと思っています。もちろん、震災のことはあまり思い出したくない…という方もいらっしゃると思うので、そのような場合は、この先を読み進めないようにお願いします。
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「原発が爆発したらしいよ」
一瞬緊張が走る。映像がテレビで繰り返し流されている。
『ただちに…』
「あ、また言ってるよ。“ただちに”って」
テレビに話しかけてみるけれど、この頃は喫煙者だったこともあり、正直タバコを吸いながら放射能の心配するのもなぁ…と思っていた。
今思えば、それまでに広島・長崎に子どもを連れて行ったりしても、頭の中に強烈に残っていたのは“ピカ”の被害。“入市被曝”やイラクでの“劣化ウラン弾”の被害の写真を見たこともあったけれど、どうしてもケロイドの症状の記憶の方が強い。
『ただちに…』
「またか…。本当に大丈夫なの??」
ただ、それよりも津波という目に見える被害に気持ちが流れる。インターネット上で錯綜する情報。
“食べ物がなくて餓死しているらしい”
“まだ道路も通れないみたい”
実際に揺れを感じる地域にいたからか、自分でできることを探している人で溢れている。熊谷市では、体育館に支援物資を集めて被災地に送るという動きが出始めたと教えてもらい、送れそうなものをかき集める。
そのうち、被災地にいる知り合いと連絡が取れる。
“まだまだ電気もガスもないんだけど、子どものための文房具を集めている”と。
身の周りの人にも声をかけると、あっという間にたくさんの文房具が集まってきた。とにかく“今、自分でできること”を一つでも多く探そうとしている人で溢れている。
次第に、現地で活動しているボランティアの映像が流れ始める。
「行けるの?」
「いや、行くと迷惑になるらしい」
「でも、物資が全く足りていないんだって」
「体育館とかでストップされてるらしいよ。不公平になるとかで」
こんな問答を、熊谷のスタッフ間で何回も繰り返したけれど、東北道が開通したと聞き、被災地行きを決める。正直、本当に行けるのか?という思いの方が強いけれど、あるブログに書いてあった文章に背中を押される。
『今、何もしなかったら、自分は一生何もしないだろう』
そうだ。それに、自分が動いている姿を子どもにも見せないと。現地で必要と言われている物は分かっている。自分達のものは完備して行って、水を渡せるだけでもいい。とにかく、今できることを一つでも多くしよう。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++(4月中旬)
土曜日の活動が終わったら、熊谷を出発。途中、晩ご飯をサービスエリアで取る。埼玉、栃木あたりは大分落ち着いていて、人も多い。連休のひと時…といった雰囲気。
それが、徐々に変わってくる。東北道を北上すればするほど、路面が凸凹になっていく。もちろん法定速度なんか出せない。
「これ、朝までに着くかな…」
ちょっと不安に。もしも駄目だったら帰ろうと思っていたけれど、なんとか夜明け前に菅生サービスエリアに到着。ガソリンスタンドは長蛇の列になっている。そして、みんなげっそりしている。
「ちょっと休もう…」
朝9時には石巻のボランティアセンターに着かなければいけない。日が昇ったら、再度出発。次第に、周囲には日本各地からのパトカーだらけになってくる。仙台南ジャンクションから海岸線へ抜ける。そして、多賀城に入る。
「あ、あれ…」
嗚咽がこみ上げてくる。今自分が北上している道路の右側は、津波にさらわれている。ここまできて、初めて津波を肌で感じる。どうしてこんなことになるんだろう…。頬がびしょびしょになる。
石巻のボランティアセンターには何とか間に合った。事前の情報が嘘のように、スムーズに作業を振り分けられる。とにかく人が足りていなようだ。
その日は、市内のお宅へ。ボランティアセンターから海へ向かって川を渡った瞬間、さらに景色が一変する。
信号は点かない。警官が交通整理をしている。目の前は埃で充満、道路は通れるものの汚泥まみれ、彼方此方にひっくり返っている車、そして船…。
ボランティア先のお宅に着いてからは、黙々と庭に流れ込んだ汚泥を、ただひたすら掻きだす。ヘドロというよりも、油のようなものが含まれていて妙に重い。お邪魔したお宅の娘さんは、場にはそぐわないウールのPコートを泥だらけにして作業をしている。服がないのだ。
知り合ったボランティアの人は、「持ってきたお弁当が多すぎたから」と差し出している。「遠慮なく…」と受け取っている。食料も圧倒的に足りていない…。
身体はヘトヘトに、だけど緊張感だけは張り詰めたままボランティアセンターに戻り、テントで宿泊。
「う…寒くない?」
強烈な寒さ。かけられるものは、タオルでも着替えでもかける。けど、寒い。
翌朝、近所の小学校へ、出発前にいろいろな方に託された物資を届けに行く。
「あ…。ここも…」
小学校の校庭にも車はひっくり返っている。そんな中を通り抜け、体育館の中へ。
「すいません。水とかをお渡しできたらと思って来たのですが…」
ここでも、事前の情報と違い、二つ返事で受け取ってもらえた。それにしても、体育館にダンボールで仕切りを作り、何枚かの毛布で暖を取っている。
「じゃぁ、壇上へお願いします…」と言われて、体育館の前まで移動。壇上に移動してびっくり。着替えや上着などの物資が山のように置かれている。
「これは、配れないんですかね?」
「いや、どこに何があるのか分からなくて…」
その向こうにいるのは、某自治体から派遣されてきた職員2名。ぼんやりこっちを見ている。
「どういうもの、いりますか?ちょっと探してみます」
こんな風にして、急遽物資の整理。いろんなものが出てくる。確かに整理しきれない量。完全に新品の服から、「これ、使えるのかな…」というものまで溢れている。ちなみに、新品のものは台湾からのものが多い。
壇上から見渡すと、ただただ生活圏にしか見えなくて、自分達が邪魔にならないように…と作業を続ける。ただ、何をしているのか分かってもらえるようになると、少しずつ「○○、どこにありますか?」と、声がかかってくる。余計なことをしているのか?という自問もちょっとだけ和らぐ。
その後、実は高速道路の料金がボランティアは免除になるという情報を知って、役所へ。もちろんここも人でごった返している。待ちに待ってようやく帰路に。言葉少なに車を走らせて。
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その後も月に一回を目安に被災地へ。5月の連休に行った時には、再度同じ体育館に物資を届けたけれど、状況は何も変わっていなくて、より一層の疲労感を感じとって帰ってくることに。
6月頃からは、ボランティアの人の集まり方に少しずつ変化が。被災者とのトラブルも耳にするようになったけど、何だかそれも納得してしまうような場面にも遭遇。秋に行った時には、何だか腑に落ちない気持ちの方が強くなって、ボランティアでの訪問は最後になった。
ただ、この間、自分なりに放射能のことを調べ直したことも、自分の行動を変えていく大きな要因になっている。きっかけは、熊谷から帰宅中の車の中で、ラジオから「放射能の被害に“しきい値”はない」ということが流れてきて、「やっぱりそうだよな…」と改めて思ったこと。インターネットで、チェルノブイリやイラクの子どもの写真を見返し、背筋が凍る。その後は、とにかく原発、被曝、メディアなどなど、目に着いた本は読み漁った。
それに加えて、震災直後の、みんなで何とかしようというシンプルな気持ちが、日に日にいろんなことに塗れていく様子が、どうにも納得いかなかった。自分の中で整理しきれていなかったことを、とにかく自分で調べるということで対処していくことが、“自分が今できること”の変化に大きく影響していくことになる。