夏の終わり

気がつけば9月も終わり。沖縄の日差しはまだまだ強いけれど、朝晩ずいぶん涼しい空気になっています。

このブログを更新するのはまたまた久しぶり。キッチンの営業を軌道に乗せようと毎日てんてこ舞いだけど、少しずつ色んな活動にも広がりもできてきました。先月には子どもを集めての親子お料理教室を開催(http://kitchencoral.ti-da.net/e6701581.html)。次回は大人を対象としたものも計画中です。また、沖縄県内のフリースクールをはじめとする民間スペースの集まりにも参加させてもらっていて、近いうちには皆さんにご紹介することができるようになりそうです。

そんな毎日ですが、この夏休みの期間には関東からの教え子が立て続けに来沖。おめでたい報告をしに来てくれたり、一つ大きな選択を控えて顔を出しに来てくれたり。久しぶりに会うみんなは、想像をはるかに超えて大人になっていて、自分自身にとって大きな励みになったり、少しうらやましかったり。

フリースクールというスペースにいて、ふと思い出すことが多かったのが小説『路傍の石』の先生の言葉。ずいぶん昔に読んだので記憶はかなり曖昧だけど、「子どもが成長して通り過ぎていく現場の中で、教師としてその場に残り続けていることが、川の流れの中で取り残されているような気持ちになる」というような一節は妙に心にひっかかっていて。子どもの成長との関わりを、大人の視点としてこういう捉え方もあるんだなぁとその人間臭さゆえに妙に納得してしまったり。

「子どもの成長は素晴らしいもの!」と表現することはほとんどの人がしているし反論の余地がない絶対的な言葉だけど、その“素晴らしいもの”の基準は人それぞれであって、例えば、ある人はわんぱくな成長過程を素晴らしいと思うし、またある人は大人の言うことに従順な成長過程を素晴らしいと思ったりと全く違う方向性も。
そんな風に、本質は全く違うのだけど…と思うことでも、「子どもの成長は素晴らしい!」という大ざっぱな言葉によって思考はごくごく表面的な浅いものに留まってしまって、集団として本質には近づけなくなることもあるな、と思うことも。ついでに言ってしまうと、こういう大ざっぱな絶対的言葉のもとにたくさんの人が集まった時に、その言葉が独り歩きをして“快感さえ”覚えさせるような瞬間もあると、少し危機感を持ってしまうこともあります。
そんなで、耳触りのいい絶対的な言葉ではなくて、自分自身の感情を合わせ持たせた表現の仕方というのは個人的に大きなテーマであったりもして、だからこそ『路傍の石』の先生のように個人的視点からの捉え方というのが心に残っているのかな。。。

話が随分それたので戻します。

先日は、教え子とお父さんが来沖。沖縄に到着した足でキッチンまで来てくれました。思い出話に花を咲かせながら、旅行の予定も聞いていると、親子で沖縄をぐるりとドライブ(教え子も運転!)する予定らしく、行き先の中には「辺野古にも」。「せっかく沖縄に来たのだから、…」と水族館や海をあげている中でこの様な言葉でした。
そして、最終日にも帰郷の挨拶に来てくれました。どこに行ってきたのか話している中で修学旅行で一緒に行った島が出てきたりして懐かしい気持ちに。辺野古を含めた目的地にはだいたい寄れたみたいだし、良い時間を過ごせたのかなと思っていると、「戦闘機の音はひどいね」と。話を聞いてみると、どうやら空港近くの瀬長島でのことみたい。この瀬長島には温泉があるから僕も何度も行ったことがあって、その度に電車の写真を撮るかのように戦闘機にカメラを向けている人をたくさん見ていたので、彼の言葉が妙に新鮮に感じてしまいました。まぁ、電車が好きなように飛行機が好きな人もいるだろうし、それと基地問題とかは別の話と言われればそれもそうなのかもしれないけれど。
今、沖縄にはいろんな問題が山積しているのは多くの人が知っていること。その知っていることをどう捉えるのかという時に、沖縄にもたくさんある“大ざっぱで絶対的な言葉”を重ねていくというよりも、感性を育みながら山積している問題を見つめていくことが最も大事で、さらには相手にも伝わることなのかな、というのが彼から感じたこと。

彼は「卒業の単位がぁ…!」なんて言いながら帰って行ったけれど、昔感じていた彼の感性に久しぶりに触れあえていろんな気持ちでいっぱいに。3年以上前、熊谷のスペースを卒業することになった当時金髪に巨大ピアスの彼に話したのは、「自分の感性を信じれば大丈夫。おれは君を信頼している」というようなことだったなと思い出しました。そして、今かける言葉も同じだなぁ。