放課後教室の一コマ~夫が家事を手伝うとは

放課後教室では、高校生と英文を読んでいる。この前は、女性が家庭から働きに出るために、社会制度の充実そして夫の協力が必要という内容の英文だった。

「まぁ、でもこの文章もあくまで夫は“妻の家事を手伝う”という立場だからね。ジェンダーの話としては少し遅れているんだよ」
「あ、ジェンダーって学校でやったよ。LGBTのことでしょ?」
「ジェンダーって、別にイコールLGBTの話って訳じゃないけどね」
「え?そうなの??」
「そうなのって…あれ?????」

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子どもの保育園の発表会に行ったことがある。小さい子たちが一生懸命に出し物をしている姿はとても微笑ましかったし、ぼくも自分の子どもの姿をカメラ片手にひたすら追った。

ただ、一つ気になる点があったのは、男の子の出し物、女の子の出し物と分けられていたこと。男の子は、ツッパリだったり空手だったりと“強い”とか“やんちゃ”のイメージの出し物、女の子はヒラヒラの服だったりお化粧したりで“かわいい”とか“おしとやか”というイメージの出し物が続いたのでした。

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生物学的な性別を“sex”とするのに対して、社会的・文化的に作られる性別が“gender”と説明しながら、

「“男だから…”とか“女だから…”とかって耳にすることあるでしょ?なんか役割というかイメージというか」
「まぁ、ある」
「今読んだ英文も基本的には“女性が家事をする”っていうのが大前提になっているよね。その上で女性が働いて活躍するためには家事において夫の助けが必要だ、みたいに」
「あぁ、家事は一緒にやるっていうのじゃないってことね」

これは家庭における解りやすい例だけど、家から一歩出ても存在する“男性だから”や“女性だから”ってどんなものがあるかな?そして、それって改めてよくよく考えてみて正当なものなのかな??

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家庭や社会における男女の役割だけではなくて、女性を取り巻く環境についても話が広がる。

「最近では某医大の入試で男性の受験者が優遇されていたことなんてこともあったでしょ?」
「あ、それ知ってる」
「他にも例えば、料理の世界だと女性は体調に波があるから調理に向かないなんて本気で言う人もいるんだよ。家ではご飯作らせているのにね」

生活しているのがそんな社会だと、女性自身もその様な視点に影響されて、「例えば女のくせに生意気だとか、そんなの女性だからできなくていいと言われる社会にいると、女性が自分の実力を出さないようにわざと失敗したりすることもあって、そういうの心理学では“成功回避”って言われてるんだよ。昔から世界にあるって言ったらあることなんだね」

と、あれもこれも話が出てきて枚挙に暇がない。

そんな風に見てくると、「女性をサポートする制度はたくさんあるのに男性対象の物は少ない、男性差別だ!」という人に、「社会がそもそも男性をサポートする構造になっているんだから必要ない」というような答えをしていた某教授の言葉には深くうなずく。

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昼間の職場は周りがパートの女性がほとんどなのだけど、DVの話が珍しくないことにビックリした。その場所でDVの話が珍しくないことが何に起因するのかは俄かには分からないけれど、さらにビックリしたのは「ほら、でも怒らせるような言い方しちゃうからよ」なんていうアドヴァイス(?)を女性同士でしていることだった。ぼくからすると、DV夫の言い分(?)を代弁するのが女性だったのだ。

「いや、それはダメでしょ。言い方がどうこうとかじゃないよ」と言うも、
「テシマさんは内地の人だしイイヒトだから。私たちは男を見る目がないから仕方ないかねぇ」なんて言われておしまいだった。

こういうやり取りだけに限らず、老若男女問わず“男性はわがままで癇癪持ちなもの…”というのが共通の認識なのかなと感じたりする場面が少なくなかったり。。。

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保育園での出し物を見ながら、いろんなことが頭をよぎった。

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「だから、ジェンダーっていうのは、なんというか社会基盤の話なんだよ。そこからフリーになって皆が自分らしく生きようっていう。そういう話があってその中に、さっき言っていたLGBTのことも関係してくるんだね」

男性が社会において女性が差別されていることに気付けていないけれど、差別されている側の女性は気付いている。アンテナの感度が違う。同じように、LGBTについても他の人達が当たり前と思っていることに対するアンテナの感度は強い。というか、強くならざるを得ない。これは、マイノリティを取り囲む様々な差別について似通っているであろうこと。

「そういう状況だと、多くの人が当たり前に思っている自分らしく生きるっていうこと自体が、時に命懸けになることすらあるんだよ」

誰かにとって命懸けにならざるを得ない仕組みになっている社会で、自分だけは影響を受けないで生きるっていうのはとても難しい。そういう社会を是正していくためにはどうしたらいいのか。まずは、知ること。それも正しく知ること。例えば、ジェンダーっていうのはLGBTのことと誤認してしまう(トランスジェンダーという言葉とゴッチャになってたのかな?)と、「自分には全く関係のない話」と思ってしまうかもしれない。学校で取り上げないよりはマシなのかもしれないけれど、これからの社会をどの様に創っていくのかという大きなテーマなゆえに、少し丁寧に話を進めてくれてもいいのかなと思ったのでした。

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保育園のアンケートでは、発表会の感想としてジェンダーについての考察を加味できないものかとそれとなく書いておいた。例えば空手の出し物をやりたい女の子がいてもいいんじゃないかなと思いながら。。

お知らせと雑感

今年は涼しくなるのが早い気が。過ごしやすくなるのは嬉しいけれど、少し名残惜しい陽気です。

9月最終日の今日は
「夏、あっという間に終わっちゃったね」と言えば、
「だからよねー。もう今年終わっちゃうよ。コロナのせいで何もできないで、ただ年を取っただけだよ」なんて若者に言われています。。

コーラルは明日10月1日~9日まで臨時休業となります。メールなどの返信は遅くなりますのでご了承ください。お急ぎの方はコーラルの電話までご連絡ください。

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沖縄に来る前はいわゆる公務員の立場にいたのだけど、公務員と言っても常勤と非常勤とはまた立場がだいぶ違って、ぼくはフリースクールを運営する傍ら後者の非常勤の公務員だった。政治を語る中で「公務員を減らせ」みたいなことを言う人も珍しくないけど、公務員を減らしたところで実際の業務量が減るわけではない。そこで必要な労働力として安価で不安定な立場の非常勤公務員がどんどん増やされていって“官製ワーキングプア”なんて言われる始末だった。(多分、今も。)

ぼくの働いていた部署はぼくが入庁した当時は自分の親の世代の人しかいなくて、部署の大部分を占める非常勤職員全員が労働組合に加入していた。「非常勤は不安定な立場だから」というのも共通の理解で、労働環境・労働条件に関する様々な交渉というのは労働組合を通して行うので、労働組合加入はごくごく自然なことではあった。

それが、ぼくより年下の人が同じ職場に来るようになると一変した。組合を勧めると「それって何かメリットがあるんですか」というのが決まり文句で、組合に入ると順番に担当の当番が回ってきて会合に出席しなければいけないというようなデメリットの方が圧倒的に大きく感じるようだった。そして、その裏には「どうせ何も変わらない」という大前提があったのだと思う。

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韓国の『明日へ』という映画を観た。スーパーで働く人たちが不当解雇に抗議して労働組合を結成するという内容なのだけど、これが実話に基づいているというのが驚愕だった。映画の中に出てくる企業の体質はどこかで聞いたことがあるな…というくらい身近な感じなんだけど、自分たちで自分たちの仕事を守るという“行動”については、とても遠い社会のことに感じてしまった。この国でも少し前に『蟹工船』が流行ったけど、あくまで小説の中の話なのだろう。

ちなみに、映画そのものとして面白かったけど、最後の日本語訳は少し違うかな?韓国語はほとんどわからないんだけど、唯一解るような場面でそんな風に思いました。あそこが肝なのに…と少し残念。

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沖縄に来る直前、勤務している部署の非常勤職員の業務内容が変わる(実質負担が増える)というお達しが来て、組合に加入していようがいまいが関係なく結局は組合を通して交渉することになった。交渉の場につくのは部署は違えど同じ職場の人同士(お達しはもっと上から降りてくる)なのでエレベーターで鉢合わせした際には「お手柔らかにしてくださいよ」なんて言われたりした。向こうは向こうでこちらに要求を飲ませるのが与えられた仕事なので板挟みで辛いのは分かるのだけど「いやぁ、あはは」と返事をしておいた。

ぼくは沖縄に引っ越すことは決まっていたので言いたいことだけ言って(そして言われて)退職し、この交渉の結末は見てはいないのだけど、噂ではまるく収まったとかなんとか。

一生懸命している仕事ならば、それを守るのもまた自分。だから、時には降って来た火の粉は振り払わないといけないこともあるんだと思っています。

最近のこと

中学一年生の時に、中国からの転校生がいた。年齢はぼく達より上だったはず。日本語でやり取りはできたけれど、休み時間に読んでいる本はやっぱり中国語で書かれていた。授業も一緒に受けていたし、席が近かった時にはちょこちょこ話もして中国語の本のことも教えてくれた。今思えば授業は大丈夫だったのかなと思うのだけど、ちょっと変わり者扱いされていた社会の先生だけは、板書の漢字の上にせっせと読み仮名を振っていたな。

二年生以降は違うクラスだったので接点はなかったのだけど、三年生の時にたまたま通った下駄箱で、彼女が上履きに水を入れられているのを担任の先生と掃除していたのを見かけたのが最後の記憶。

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岐阜県可児市で工場で働く親を持つ外国籍の子どもを学校に受け入れるドキュメントを見た。日本語も十分にできないのに日本の学校の教室にいなければならなくなった子の様子というのは何ともズキッとした。

外国籍の子だけのクラスを作って日本語と数学、英語を勉強するように促したりと学校側の努力も取り上げられていた。普段のクラスでは見られなかった緊張感の解けた表情が、そのクラスの中では見られた。けど、学校の中で外国籍の子どもだけのコミュニティーを作ることが良いのか、はたまた日本の子どもたちの間にポツンと置かれている状況が良いのか…どのような対処が一番良いのか正直わからなかった。ドキュメントの中では、クラスを行き来させることで“日本の学校”に慣れさせていくという感じだったけれど、それも休みがちになる子に登校を促すための苦肉の策だったような。中学生という年齢もあるのかもしれないけれど、本当に難しい話だった。

ただ、外国籍の子どもも可能ならば高校に進学して勉強を続けたいと思っていることはハッキリしていた。毎日の“日本の学校”に馴染むことを目標にするよりは、学力と進路に力点を置き、おそらくは日本で暮らしていくであろう将来を念頭に置き、道筋を立てて考えていけるサポートが今ある中ではベターなのかなと思った。

ドキュメントの中では本人の頑張りもあって高校には合格したけど、このコロナの影響で工場で働く親の仕事がなくなり、入学時の制服購入の費用もないからせっかく合格したのに進学を諦めるという場面もあった。入学費用のまとまった金額は支援団体が何とかする…となったけど、ホッとした子どもの横で何とも不安そうな親の表情が辛かった。

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映画『上を向いて歩こう』を観た。鑑別所を逃げ出した子が、社会の中で居場所を探していく話だった。誰からも認められない、必要とされない、もしくは排除されるというのは将来を奪い、自暴自棄を起こさせるということが常に話の根底に流れていた。

そういう不安定さが社会にありつつも、居場所に出会えれば衣食住には困らないし、慎ましい生活ならば何とか手にしていけるものとして存在するのが“あの時代”だったのかなぁと、今日の状況と比べながら思う。

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放課後教室。

辞書を片手に読んでいるのは、テニスの大坂なおみ選手の英文。

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可児市のドキュメンタリーでは、数十年前に中学校が外国籍の生徒に積極的に関わるきっかけになった男性が出ていた。中学校に行っても外国人ということでいじめられていて、素行もどんどん悪くなっていったようだ。それでも「お母さんが頑張ってたから」と当時を語り、その横でお母さんが涙を流す姿は何とも居た堪れなかった。

日本で育った子もたくさんいて、その中には日本語しか話せない子もたくさんいる。だけど、外国籍だからという制度上の不安定さ、「外国人だから」という周囲の目が引き起こす精神的な不安定さが存在する。本来ならば全ての子どもが持てるべき将来への展望を、先の見えないトンネルの中で探させてしまっているのは、日本で生活していく選択肢を“消極的なもの”にしてしまう状況と繋がっているのだろう。そして、その状況を作っているのは子どもたちではなくて、同じ国に住んでいる“ふつうの”日本人なんだと思う。

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映画『上を向いて歩こう』の、高橋英樹、吉永小百合の眩しさと言ったらもう半端じゃなかったです。途中に何があっても最後に『上を向いて歩こう』が流れれば、もうそれで全て良しな映画でした。

休み明け

「うちらがこんなに我慢しているのに…」というのは、バイト先の学生の言葉。せっかく大学生になったのに、新型コロナの影響でろくにキャンパスにすら行けない状態が続いているようです。

沖縄県内の新型コロナの新規感染者は5月頃からゼロが続いていて、ぼくのバイト先の飲食店も徐々にお客さんが戻り、去年の同時期より売り上げが増えてる状態にまで回復していたのだけど。「観光シーズンになったら元に戻っちゃうのかな」なんて言っていたのも甘かったくらい、あっという間に前回よりも厳しい状況になってしまいました。現状、改善していきそうな素因は全く見当たらず、元々移入例の多かった沖縄なのにGoToだなんだと言っているし、大学も次いつ行けるのか見当もつかない中での冒頭の言葉でした。

久しぶりに営利企業でバイトをしているので経済が回らないことも大問題…というのは同僚のお母さん方を見ていて(もちろん自分の状況も含めて)身に染みて感じます。おまけに前回の落ち込みよりもさらにダメージが長く響きそうな今回の状況です。感染者ゼロの間に出された県民向けの観光キャンペーンは好評だったので、もうしばらく県内で経済を回すことで持ちこたえられなかったのかなぁと思ったりするけれど、全て後の祭りです。今は感染例が身近になりすぎて、それこそ経済云々言ってられないくらいかもしれません。

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予想通りというかなんというか、県内の多くの小中学校が休校措置を取っています。

けど、学校が夏休み明けだったはずの今日から放課後教室は開始。
「休みはどうしてた?」
「毎日人生ゲームばっかりして飽きた。学校に行って友だちに会いたい」なんて子も。前半は思わず笑っちゃうけど、後半はやっぱり寂しい言葉。今年で卒業なんて学年だったら特にだよね。

こんな風に、休み明けというのとは少し違う雰囲気の中、マンツーマンの放課後教室では感染防止対策を継続しながら勉強を再開しています。とにかくぼくが感染してしまったら、せっせせっせと通って来るみんながコーラルに来られなくなってしまうので、用心に用心を重ねて生活しなくては。。そんな毎日です。

虐待のニュースから

放課後教室で勉強している子から、

「なんか3歳の子の事件、あったよね」と、急に話しかけられた。
「あ、お母さんが子どもをおいて行っちゃった話?」
「うん、そう」

幼い子どもを8日間も家に閉じ込めて外出してしまい、衰弱死させてしまった事件のことだ。ふいに話題に出されたのと、この様な事件を中学生は注目していると知ったのとで、少しびっくりしてしまった。

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コーラルを探してくれた人たちはフリースクールや不登校をキーワードにたどり着いてくれることがほとんど。その様な方々に向けて紹介する意味を込めて、沖縄に越して来る直前まで児相で働いていた立場として虐待関連のことについては積極的にブログに取り上げたいと思ってます。ぼく自身児相に入ってみるまでは知らなかったことがたくさんありました。知っていたら、それまで出会ってきた子に(親御さんに)何かできたかもしれないという思いも正直あります。

去年、千葉での虐待について書いた記事→
時事から http://freeschool-coral.com/okinawa-diary/?p=2491

また、虐待や児相に関して誤った情報を“正義の立場”から流布する人達が散見されることにも危惧していることも大きな理由の一つです。

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ニュースで流されるSNS上での写真は幸せな親子の様に見える。もしかしたら、親が“幸せに見せている”という方が合っているのかもしれないけど。ただ、親の意図はいかなるものだろうと、そのシャッターが下ろされた瞬間に子どもが感じた満足感・安心感というは本物で、さらに継続的な実感になる。今回の事件でいうならば“優しくて私と仲良しのお母さん”の記憶に。何度も言っているけれど、どんなに酷いことをする親でも子どもは一緒にいたいと思うことがほとんど。それは、たとえ短い時間だろうと幸せを感じた時間があるからこそ強くなる思いなのだと感じる。

一方、大人の方はどうかというと、悲しいけれど、親が育てることが不適切なケースというのは実際に存在する。それは子どもの成長に大きな影を落とすこともあるし、また、次世代に影響することもあるし、さらには今この時に命に直結してしまうこともある。不適切なケースにあてはまるのかどうかの判断は本当に難しいけれど、本人たちに全ての判断を委ねることはとても危うい。

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今回のような事件の時に忘れてはならないのは、当然父親もいるということ。

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以前フリースクールで働いていた時にお世話になったボランティアさんの中には養護施設に就職した方もいた。また、児相で働いていた時には、実際に養護施設を見学させてもらったりした。みな、本当に一生懸命でした。

どうしても…の時に、子どもの行き先がどこにもないというわけではなく、むしろ安心できる生活を準備しながら待ってくれている人たちが各地にいます。多くの人たちが、この道を決して不幸な選択肢ということではないと思うことが、社会福祉としての存在感を後押ししていくのだと思っています。

休校中に思ったこと

沖縄県内の新型コロナ感染は完全に一段落しているようで、マスクとアルコール消毒、検温の習慣は残っているけれど、行動範囲に関しては以前に戻ってきているように感じます。放課後教室に通ってきている子の話を聞く限りは、学校は休校中の授業の遅れを調整する(取り戻す?)ことに苦慮しているようだけれど、思っていたほど強引というわけではなさそうです。

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2歳間近になる娘はいろいろな童謡を聴いては踊りながら歌マネをしている。マネと言っても言葉として発せられるのは単語の語尾だけのことが多い。しかし、普段の生活の中でちょこちょこぼくの言っていることを理解している様子を見ていると、しっかりとした発語はしていないけれど頭の中の言語、いわゆる内言語はかなり発達していると感じる。それは、ぼくが普段聴いているような洋楽ではなく、童謡を聴いたときに限って歌マネをすることからも感じ取れる。そして、歌詞の持つストーリーが言語発達を大きく後押ししていることを目の当たりにしているような気がしてくる。

そんな中で印象的だったのが『まんが日本むかし話』のエンディングソングだった『にんげんていいな』。娘も歌を聴きながら「バイバイバイ!」って喜んで歌っているのだ。ぼくなんかの世代には馴染みが強く、毎週土曜の夜にでんぐり返しのアニメを見ていたのを覚えていて、当時ぼくの幼稚園の運動会を見に来た父が「みんながあまりにも大声で『にんげんていいな』を歌っているから、司会の先生が「もう一回!」って何回も放送するように言ってたよ」なんて言うほどポピュラーだったのだけど、テレビ放送を見ることをなくなった今でも子どもを惹きつける何かがあるんだなぁと娘と一緒に歌いながら思う。

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「学校とか何もなくても、子どもは自分ですることを見つける。自分はそうだった」みたいなことを某元都知事が言っていた。字面だけ追うと一見“子どもの潜在能力を理解している”ような感じではあるけれど、当時行政の立場にあった人間が教育の必要性に関して子どもに丸投げしている発言とも捉えられるだろう。もちろん自分で何かを見つけて行動する子もいるけれど、そういう子どもが全てではない。“学校”に通っている年齢層は広いという面からしても、とにかく発言としてあまりに短絡的で無責任だと思った。

今回のコロナに関わる休校の時に「子どもにとっては自分のできることができるチャンスだ」とか「こういう時間だからこそできることがある」といったことを言う人が、フリースクール界隈にも少なくなかった。メディアでも例えば休校の時間を有効利用して特許を取るような子どもがいたと取り上げたりすることがあったけれど、そういう子は極々一部なのではと思うのが個人的な実感だ。このような発言の主は、学校同様に休校にした自分のフリースクールに通っている子どもに対して言っているのか、はたまた普段は学校に通っている子どもに対して“不登校じゃないあなた達にはせっかくの機会だ”と言っているのかイマイチわからなかったけれど、ぼく個人として某元都知事の発言と重なってしまっただけでした。

フリースクールをはじめとする民間教育に携わる人たちは、学校に行かないことを選択した子どもの教育を受ける権利も守るといった理念がベースにあるようと思っていたのだけど、全ての子どもの学習権に関わった今回の事態に際し、何とか学習を継続する方法を模索することなく、結局は上記のような発言に着地してしまうのかと少し首を傾げてしまった。

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お世話になった先生というのは今までに何人かいるけれど、幼稚園の担任の先生もその一人だ。沖縄に引っ越す直前には近所の銭湯で湯船に浸かっていたら偶然お会いして、これからどうするつもりなのか等いろいろお話した後に「うーん…。大丈夫かよ。。ひろし、何年かやったら帰って来てもいいんだからな」と言われた(笑)

その先生は現在幼稚園の園長先生をされていて、インタビューを読むことができた。その中でこんなことをおっしゃっている。


自由に子どもが遊んでいると放任みたいに言われることもあるじゃないですか。でも、「遊ばせとけばいいよ」という放任でやっているわけではないわけです。

人は体験していないことはやらないので、 体験をどのように子どもたちに伝えていくのか、やったことないことをどのようにその年齢の子どもたちの発達に合わせて提案し、自由な遊びをより豊かにしていくのかということを常に考え、その中で自由な保育は成り立っている。(→「保育者だって、謝ってやり直せばいい」あんず幼稚園の考える、保育者の役割と在り方

これは、娘が保育園に通い出していろいろ考えることがあって調べているときに出会った記事なのだけど、引用部分にはぼくの考えていることにかなり近い。また、『きのうのつづき 「環境」にかける保育の日々』 新評論 あんず幼稚園 編 宮原洋一 撮影 という本には、子どもの体験、“あそび”を引き出すことのできる環境、関係、時間などをいかにして大人が整備していくのか…といったことが実践と共に書いてある。

懐かしい感じがするのと共に、少しいろいろと考え込んでしまった。。

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童謡の曲作りに乳幼児が思わず体を動かし言葉を発したくなるものがあるように、幼児保育の中にも、学校教育の中にも年齢に合わせた大人からの働きかけが子どもの学びの広がりに大きく関わってくるという自覚が、改めて大人の側に必要なのではと強く思う。学校年齢においては、大人の関わり方によって興味関心の表出のし方は変わってくるし、学習という面で直接的にこの表出に大きく関わってくる時間が授業なんだろう。こんな非常時だからこそ、子どもの学びの大きな柱に自分が関わっているという意識だけは常に頭の片隅に入れておきたいと思っています。

梅雨の中休み

梅雨の沖縄…のはずが、今日も真夏のような日差しです。今年は例年の様に「夏だ!遊びに行こう!」という風にはならないけれど、これから数か月続く夏空は少し心を晴れやかにしてくれそうです。

みんなも学校が始まって少し経ちました。この“学校が始まって…”というのが上級学校への入学のことだったりもするので、休校が延びるたびにジリジリと新生活への緊張を延ばされた感じもあって少し気の毒にもなりました。なので、「ついに通常授業だよぉ」というのも、どこかしら晴れ晴れとしたニュアンスを感じ取れる気も。

今後また第二波がくると予想されているけれど、どうにもならない閉塞感からくる不安定さを身近で感じた身からすると、みんなの学習や活動に対する影響を最小限にする措置は今のうちから準備しておくべきだと強く思います。

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相似の単元です。

「やったことある?」
「やったことあるような…。聞いたことあるような…。けど、どういうのだっけ?」

まずは導入から一緒に。折り紙を同じ形に切って敷き詰めていきます。そこから分かることは何かな?
「例えば元の小さい三角形と、長さが二倍になった三角形を比べると…」

辺の比から角度の関係、面積の関係…。いろんな発見があったね!

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「相似?あ、折り紙貼ったやつ?」なんて言う風にいつか思い出せる導入になったら嬉しいな。

放課後教室のようす

沖縄は梅雨入り…のはずが、今日は快晴。新型コロナの自粛も徐々に解除されるらしく、ポカポカ陽気に誘われた人の動きも見てとれるような。まぁ決してこれでおしまいというわけではないので、今までの生活にすっかり戻るというわけにはいかないのだろうけど、押さえつけられるようにあった緊張感が多少はほぐれていくようにも。

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放課後教室は変わらず継続中です。マンツーマンでそれぞれの勉強を進めていく中で、新しく入会した子とは分数のかけ算・割り算はどういうことをしているのか、見学に来た子とは割り算のひっ算はどういうことをしているのか…を一緒に考えてみました。

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解き方は知っているけれど、どうしてその解き方が成立するのかは知らない…ということは多々あるようです。与えられた方法を体得する前に、まずは目の前の事象を理解するという第一歩が大事だと強く感じます。それは、みんなが勉強しているのは問題を解くためじゃなく、この先の長い人生自分で考えて理解し、判断することに繋がっていくだろうと考えているからです。

「本当の勉強はこれから自分でしていくんだから。そのためにも今はたくさん勉強しておくんだよ」という高校時代の先生の言葉がふとよぎります。先行きが何とも不透明な今日だから余計にかもしれません。

前回のブログに続いて…

臨時休校 家庭学習内容「改めて学校で教える必要なし」文科省

家庭学習も評価に反映 臨時休校の長期化で通知 文科省

先日のブログで“教育を止めない”云々のことを書いた。国の対応がお肉券やら布マスクやら想像を絶すること目白押しの中ちょっとやそっとのことじゃ驚かくなってきたのだけど(←こういう耐性は良くない)、これらの記事には目を疑った。

フリースクールに携わってきた身としては、学校に行かない・行けないという子どもが教育を受ける権利をないがしろにされてはいけないという思いがあった。公の機関として学校という場を用意しているのだからそれで子どもが教育を受ける権利に対する義務を果たしている、という理屈は大人として許容してはいけないということだ。いくらいろんな学校があってそれぞれの特色を打ち出そうとも学校である限りは公の機関の域を出ることはないから、学校に行かない・行けない子の教育を受ける権利のためには、学校以外の学びの場が必要だという結論に帰ってくると思い続けている。

ところが、公の機関としてすら子どもの教育を受ける権利を放棄している捉えてもいい上記の記事。前回記事に書いた子ども自身が感じている“教育の欠落”を、家庭の責任として押し付けられる形で上から落とされてきていいのか…。ちょっと考えられない状況になってきています。

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「休み中の宿題出た?」と聞いてみる。

とりあえず去年の復習という大雑把なもの、去年の英語の教科書の文を10回書き写すという作業…。こんな内容の課題を出されている話も珍しくありません。自分で勉強したい子には文科省がこんな学習インターネットページを紹介しているよ、なんていうのもあちこちで見ます。とにかく“丸投げ”と言ってもいいでしょう。なんでもないときには気にならなかったかもしれないことも、先の見えない今日の状況では所詮他人事なんだろうと横目で思ってしまいます。

前回の記事でも書きましたが、医学疫学的視点、経済的な視点同様、教育も危機的状況だということが浮き彫りになっていると強く思います。“教育を止めない”ために自分ができることは、現状ではコーラルを続けることしかないのですが、そのためにも自身の健康維持を含めて先を見据えた緊張感を保っていきたいと思っています。

放課後教室の対応

普段の生活はいつ戻るのだろう…と先行きが全く見通せない状態になってきました。沖縄でも新型コロナの感染者が連日伝えられ、ぼくが日中働いている飲食店では目に見えてお客さんが減りました。そして、予想されてはいたけれど、沖縄県内の学校も新学年を迎えて早々に軒並み休校になっています。

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学校としても新年度開始早々の休校なので混乱しているようで、教科書とプリントをもらったという学校から、教科書もまだもらっていないという学校まで対応にばらつきが。

「一応、去年の復習のプリントみたいだけど」
「新しい内容が入っているけど、自分でできるのかな?」
「自分でホームページで確認しろって言われた」

学校の混乱は、そのまま子どもの混乱にもつながっているよう。

「休みになって、どうしてるの?」と同僚のお母さんたちに聞いてみても、
「家には子どもだけになっちゃうし、結局テレビかゲームしかやることなくなっちゃうよね」と、ある程度予想された過ごし方になっているみたいです。まぁ大人でも急に一日家にいるようになって、外でするように仕事をしろと言われてもなかなか難しいかなと怠け癖のある自分としては思ってしまいます。

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コーラルの放課後教室は、

・授業はスタッフと子どもの完全マンツーマン
・公共交通機関を使って通ってくる子どもがいない
・会員数が限られている

という点から、スケジュール通りに行っています。

念のため、アルコール消毒液の設置や換気の徹底、席を離すなどの対応を取っています(いずれも感染者がいない前提では必要のないことですが、意識の問題として)。また、欠席をお願いする項目をいくつか保護者の方々に通知しました。今後の動きによってはコーラルへ通ってくることが難しくなる可能性も想定できますが、今のうちからその場合に備えておきたいと思っています。

新学年、上級学校に進む子にとって、新しい学習内容は不安でもあり、また楽しみでもあります。「難しくなるんだよね?」という言葉には決してマイナスの感情だけが存在しているわけではないことは、目の前に子どもから肌で感じるものです。せっせと決まった時間にコーラルにやってきては勉強して帰るルーティーンをどんな形でもいいから続けていきたいと思っています。

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「ホワイトボード遠いけど、読める?字、小さくない?」
「?全然大丈夫だよ」

同じ場所からメガネを取ってみると全く読めない自分の字…。年齢を感じます…。

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この休校処置がいつまで続くのかというと、政府の対応を見ていると想像以上に長引くのではないだろうかと思わざるをえなく、沖縄県内の多くの学校で設定された2週間の休校を「春休みが長くなったね」という意識で過ごすことはできないと考えています。

今の日本では、新型コロナウィルスに対して医学的疫学的な視点、経済的な視点が特にフォーカスされ、その危機的状況が常に大きな関心を集めています。ただ、有事と呼べる今日において、これらの視点と同列に教育も捉えられるべきであり、この教育も危機的状況にあるとぼくは思っています。先日「学校が始まってもバーッと急いで授業進められて、将来“ゆとり世代”みたいに言われちゃうんだよ」と子どもが言っていた時にはズシンとくるものがありました。“ゆとり教育”の是非はここでは別としますが、子どもに“教育の欠落”の予感をさせている現状の事の重大性に気付かなければいけないと思っています。

外国では自宅でも学習を続けられるようにとタブレット端末を配布してインターネットを利用して授業をしている国などもあるようですが、そこには「どんなことがあっても子どもの教育は停めてはいけない」という大人の側の確固たる意志と態度を感じ取ることができます。日本でもパソコンとルーターを貸し出そうという声もあるようですが、通信料は家庭持ち、理由は「これを使ってゲームをするかもしれないから」みたいなのをどこかで見かけて雲泥の差を感じてしまいました。

「私はコーラルで予習しているからまだわかるけど、塾に行っていない子は大丈夫なのかな?」というのは子どもの“生”の意見です。2週間の休校が延長されたときに更なるプリントの配布…。そんなことにならないことを願うばかりです。